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物語はどこからやってくるのか 幻想文学などに関する断片  西野りーあ

幻想 モローの絵.jpg
モロー

ものがたりは どこから やってくる のか ―幻想文学などに関する断片―
                              西野 りーあ

 作品に関わらなくて済む人々が世には多いのに、一方で、『書かざるを得ない』人々
がいる。書かない人が書かない事に疑問を抱かないのと同様に、『書かざるを得ない』
人は『書かざるを得ない』事に疑問を抱かない。

 とはいえ。端から見れば「何のために」と素朴な疑問が出るであろう。実際「稼げ
ているのか」、「受けの良いものを書いたらどうか」、とか「反社会的なものは書か
ない方が良いのでは」と頻繁に突っ込みが入る。
 空間からものがたりを引き出し文字に置き換える作業は、大変な重労働のはず。何
が書かしめるのか。《物語の魔》と仮称する霊的なものが、書くに適した人々をして
書かしめるのだ。
 今日、精霊やら妖精やらは、小さく可愛い(ちゃちな)イメージで流布しているが、
本来、神話伝説のように神々と人間の中間にいる、力あるものたちである。

 ある種の表現者が書かざるを得ない状況に追い込まれるのは、これらの魔のせいで
ある。「そんなぁ。魔じゃなくて、神や詩神じゃ駄目ですかぁ?」と聞かれれば。神
でもムーサでも名称は何でもいいのだ。しかし。書かざるを得ない作品は、必ずしも
真善美とは関係無い。それらは人間社会の狭い価値基準であり、地域や時代が変われ
ばたやすく変わる。
 異界の者たちには、別の視点がある。此の世は人間しかいないのではなく、人間が
此の世を造ったものでも無く、人間中心に動いている訳でもない。人間中心に考えた
いのは人間の都合であり、あるいは人間中心にしか想像しないのも人間の都合である。
 人間が現状で想像しうる真善美など、限定的なものでしかない。それらを越えた辺
りから書くことを強制する何かはやってくる。神やムーサより、魔的な力と言えよう。

 なぜなら。作品によっては、作者が社会的名誉を失ったり、命を無くしたりするこ
ともあり、それでもその作者は書かざるを得なかったからだ。

 ただし、趣味や楽しみの為に書く人たちに魔が作用するかと言えば、否であろう。
 書くことは呪術に似ている。星々が交差する時間の海の波打ち際で、祈る行為に似
ている。迷路の神殿に花の形の灯をかかげるのに似ている。発掘された異界の文書を
読み解いて、当時の人々と心を通わせる行為に似ている。夕暮れ時に聞こえる遥かな
歌声にひかれて、さまよい出るのと似ている。一時的に神隠しにあうのに似ている。
 戻った時に手にした壺には、幾編かの詩歌が入っているだろう。それらは、見知ら
ぬ誰かの霊酒となり、果物となり、餓えを癒しもするだろう。
 しかし、壺の蓋を開けたとたんに中の物は香りを放つ炎と化して、揺れ踊りつつ消
えるかもしれない。嘆くなかれ。炎を目にし、香を嗅いだなら、後は自分で書けばよ
い。
 異界は隔絶された場所にあるのではない。此の世と分離不可能に混ざり合っている
と知ったのだから

西野りーあさんのブログ「うろくずやかた」のURL  http://urokuzu.net/


月夜のうずのしゅげ記
鳥肌が立つような上記の文は、幻想詩人であり、詩誌「揺蘭」の編集人西野りーあさんの文である。
本当に私を自由にくつろがせてくれたし、身震いして襟を正すことができた。
「書くことは呪術に似ている」と言う一言には感動してしまって、びしびし来てたまらなかった。
日常と魔的な要素の入った幻想空間の間には、どっちともつかない混淆された場所がある。
そこでは人間の堪を総動員しながら、もう一つの力が満ちてくるのを積極的に無の容器になりながら待ち続けなければならない。
私の場合土笛や石笛演奏もそうである。
個人的には、肉体を消しながら、肉体以外のすべてのものになってしまいたいと願っているとも言えるだろう。
耳だけはどちらがわに向けても開いている。
ラジオ体操的で教科書を読んでいるような日常雑感は必要なものだけれども、そう言う上皮的な作品には興味がまったくわかない。




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りーあ

貴重なコメントも頂き、拙文のご紹介感謝です。

コメントと文章が響き合っって、更なる味を出している具合。

一人だけでは出ない味わいがあります。
by りーあ (2010-10-02 17:48) 

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