So-net無料ブログ作成
検索選択

あの世からのことずて

「この世で起こることは必要があって起こっていることなのだから、あなたに起こったことは、今のあなたにとって必然的なことだったのです」とテレビのオーラ番組で、ゲストが霊能者によく言われている。
亡くなった肉親や先祖や仲間だった人物が、番組収録会場に現れて、ゲストに訴えたいことを霊能者を通して知らせてくることがある。
ある男優さんは、子供のころ自殺した両親が、なぜ自殺したのかを知りたいために、死者たちの声を聞くことができる宗派の仏門に入ったりしている。




私の父の病名が癌だとわかったのは昨年2007年の10月の初めで、11月13日には鬼籍に入った。
私には生まれてすぐに亡くなった1歳年上の兄がいて、その兄の位牌をあらためてちゃんとした漆塗りの位牌にして欲しいと10月半ばに父に頼まれていた。
父の葬儀後、兄の位牌ができてきたので仏壇の置き場所に置いた。
兄の名前は中島一美である。
母と私は「お父ちゃんは一美ちゃんと会えたかね?」「もう会ってるんじゃないの、会えていたらその証拠に位牌を目の前で倒してよ」「何でもいいから知らせてよ」などと言って笑っていた。
位牌は倒れることはなかったが、1月末(父が亡くなってから2ヶ月後)オカリナ教室に、兄と同姓同名の中島一美と言う男性が入会し、私の目の前に現れた。
兄が生きていたらちょうど同じ年かっこうだ。
世の中には不思議なこともあるものだ。

星笛人の「つれづれやぶにらみ」

2月〜3月の時期、市民会館や音楽ホールの空きがあるのか、総決算のつもりか、こちらでは習い事の発表会があちこちで行われる。
恥ずかしながら、私が指揮など受け持つわれらオカリナ教室も3つほど出場している。
習い事をしている人々にとっては年一度の晴れ姿だろう。
当日は、小規模な体育館のような控え室に、発表会に出場する15組〜20組のグループがいっしょくたに集められる。
当然、控え室の中はごった返す。
左右前後からウクレレ、ハーモニカ、大正琴、三味線と尺八と琴、二胡などが混ざり合った雑音(混ざり合っているので雑音に聞こえる)が際限もなく聞こえ、スペイン舞踊、フラダンス、サルサダンス、民謡踊りなどがこれまた左右前後で右往左往する。







控室ではものすごいことが行われる。
うわあああ!
サルサダンスが民謡の三味線で踊っている!
裸に近い肉体が三味線のツンテンシャンのテンポにのってうねっている。
サルサダンスチームが使用している小さなCDプレーヤの音は、本物の三味線のツンテンシャンの大音にはかなわず、かき消されてしまっている。
がははは!面白すぎる。
スペイン舞踊は、フラメンコギターの強烈な曲で踊ってはいるが、ギター演奏の間隙で聞こえるウクレレとハーモニカ音ででも踊っている!
ぶははは! 唖然とするなあ。
フラダンスにウクレレはいいが尺八が同じ強さで混ざっているぞ。
遠くから聞こえているのは民謡だ。
面白くて笑いが止まらない!
幸い哄笑はざわめきにかき消されおとがめなし。
あまりの奇妙奇天烈さに参りました。降参しました。なえました。くたびれて眠くなってきました。
でもなんだかかわいそうな世界です。
調子っぱずれのシャンソンを歌う御婦人が可愛く見えても来る世界です。
衣装ギラギラも厚化粧も悪気も困惑もなく一生懸命になされているのですから。
このご婦人は、情に厚く仲良くなったらとことん親切、しかしコントロールがきかないので、親切にされた人が困ってしまうタイプでしょう。









私たちは尊厳も何もない阿鼻叫喚の場でのたうちまわる餓鬼なのか?
たまらない、我慢できない、やってられないと誰も思わないのだろうか?
うーーんやっぱり逃れたい。
本番前に自分たちの演奏するに曲に違う音が混ざって鳴らされる場にいたくない。
それでなくても音程が狂いがちな年1回の発表会だ。
お楽しみの習い事程度だから音の尻尾がますます垂れ下がる。
堪忍袋の緒が切れて、発表会当日は他所に音楽教室の部屋を借りてリハーサルをすることにした。
なーんだこんな手もあったのだとあとから思ったが。

「長江哀歌」(ちょうこうエレジー)という映画  NO66

サプライズ感覚満点
超現実的な場面がところどころに出現

ジャ・ジャンクー監督の映画に出演しているのはほとんど現地で出会った三峡ダム建設で移住を強いられた住民たち。
毎回必ず監督の作品に出演する4人の俳優(一人は監督の従弟で実際の炭鉱夫・若い頃の森繁久弥にそっくり)も勿論いる。
映画の舞台になっているのは長江(支流が揚子江)・三峡ダムのなかばにある奉節(フォンジュ・古都)
長江は河の名前で四川省から湖北省に至り240キロに及ぶ。
三峡は古来より山水画に描かれるほどの絶景(三つの峡谷を有する大峡谷)
流域には4億の人々が暮らし、豪雨の時には大洪水で人命や財産を失っている。
ダム建設は1994に着工され2009年に完成見込み。
巨大貯水池(ダム)は長さが東京神戸ほど、日本の黒部第4ダムの約53倍。
130万人以上の人が移住を強いられ、歴史的遺跡は水没している。
古都の奉節(フォンジュ)が取り壊されてゆく現実の中で、超現実的な驚きが何カ所も盛り込まれている。
手触りは異なるがフランス映画「サンジャックへの道」にも幻想ファンタジーによる異次元遊泳感覚があった。
映画「長江哀歌」は2006年の中国映画で、監督ジャ・ジャンクーはドキュメンタリーを主軸に映画を作ってきた監督である。
当時36歳(現在は38歳)の若き天才(顔が宮沢賢治に似ている)
宮沢賢治の甥の宮沢和樹氏(花巻にある林風舎社長)にもそっくり。



物語はパンフやチラシを見てもらうと分かるのであるが、そんなものない人にほんのきっかけ程度に彼らの居る日常を紹介しょう。
山西省から16年前に別れた妻と娘に会いにきた男(炭鉱夫)と同じく山西省から2年間音信不通の夫を訪ねてきた看護婦(監督のミューズの俳優チャオ・タオ)の話。
2人とも探していた人とは会えるのだが、すぐに別れなければならないことになり、これからがずっと一緒にいられるかどうか、その先の展開のないまま映画は終わりを告げる。
明日どう言う変化がそれぞれの身に降りかかるかわからない。
2人の男女は言わなければならないことはどんどん言うが、激情を顕わさず寡黙に近いシーンが多く、悲しげに、けなげにふるまう。
(山西省から妻や娘、夫に会いに来るのだからそう言う行動を起こさせるマグマのような熱いものを抱えているのは当然だろう。 非合法の炭鉱で働き、非合法の結婚をしている男にとっては、ただ静かでおとなしく穏やかないい人でいるだけでは、生きていけなかったに違いない。男はポケットにナイフを持っていて、理不尽に脅されるとカチッとナイフを開くのだ。女・看護婦も夫にただならぬ仲の女がいるとわかると自分にも好きな人ができたので離婚してくれと言いだす)

映画の中で男女2人は接点がなく、すれ違いもしない。
画面が男(炭鉱夫)から女(看護婦)に切り替わる時に背後上空にUFOが左から右へキリキリと飛ぶ場面が同じ場所にいる唯一のものだろう。




<シュール・シュール・シュール>

急に驚くような別物シーンが、ワンシーンの中で同じ貴重さで割り込む。
画面全体の時間が濃くなり、集約された焦点が物語の流れとサプライズ場面の2つになる(2つの場面はちぎれてはいない)
詩情あふれる場面だ。




<現実とファンタジーの溶解したシーン>すべての共通点は美しいこと
現在のシーンと重要なつながりや必然性を感じられないことがとても面白い
興味が2分される(めったにない驚きの体験)

○京劇めいた紛争の人物が1人道で火を噴く(猿か?いわゆるストリートのパフオーマンスではない)
○画面の途中遠景の建物の一部が崩れ落ち注目する焦点が急に変化し、意表を突かれる
○主人公が歩き去った後、どこからともなく主人公の雰囲気に似た犬が一匹、主人公が消えた場所あた りからあらわれる
○空の向かって左から右へUFOが飛ぶ(2場面あり2か所は場所としてはつながっている)
○男女が話していると壁の電気コードがショートしてジューパチパチと音を立てる
○土偶めいたタワーが夜中に下から火を吹いてロケットのように空に飛ぶ
○夫と妻がビルの上で飴を食べて話している時、画面左のビルが前触れもなく崩壊する
○主人公が座っている画面のすぐそば京劇の扮装をした人物が3人テーブルについている(主人公をし  ばらく映した後、ゆっくりと3人が映し出される。聞こえて来る音や指先からすると3人はテレビゲームを やっているようだ)
○16年ぶりに会うことができた炭鉱夫の夫とその妻が語り合っている姿の向こうに重なって、向こうから こちらへ興味深々な表情をした女が歩いてくる(まるで撮影中に通りがかった人が映ってしまったようだ
 ふつうはカットされるのだろう。意図的なものか?)
○主人公が仲間と仕事を終えて帰ろうとしている時、ビルとビルの間に綱が張ってあり、黒い影の人物  が1人綱渡りをしている(影は2人にも見える)


映画は中国人に大切な烟(たばこ)・酒・茶・糖(あめ)と言う四つのタイトルが付く。
予告編で聞いた少年(子役ではなく、現地にいた少年)の歌に引き込まれてこの映画を見に行ったのだが、河に迫った山と行きかう船の場面が亡羊として美しく、歌を聴く人々の嬉しそうな表情には忘れ去られた懐かしい豊穣なものに触れた思いがしてしばし落涙。
たたき崩される住居、瓦礫の中で貧しく暮らしている人々、いずれはその場所を離れなければならない人々の行く末の不安が漂う。
その立ち退きと言う不安が、実際に具体的に強力に危機感を感じさせ、人々の身体をかっきりと他の場所へ行くように促すと言ってもいいだろう。
活気のある工事の音が充満、乗り物の警笛や少年の歌「ネズミは米が好き」(ネズミが米を好きなように私もあなたが好き)「2匹の蝶」やどこからともなく聞こえてくる不思議な歌(シンセサイザーの音と全く別個の高らかな男声歌謡が同時に流され調和している・感涙)、熱血歌手のノリのいい元気の出る歌もあり(心情は日本のヨイトマケの歌に近い・星笛館主はこの歌が一番好きだった)素晴らしかった。
これは文章では伝わらないので是非映画を見てもらいたい。
あとから知ったのだが、2006年のベネチア国際映画祭で審査員長のカトリーヌ・ドヌーブらがこの映画を金獅子賞に選んだ。
上映まで一切作品名を明かさず、最後の最後に「サプライズ上映」と言う異例の形で紹介された映画だった。
共感できて、この頃貫禄の出てきたドヌーブをある意味身近に感じた。

アンパンマンマーチ

福岡の宗像市に住んでおられるオカリナ教室仲間のあるご婦人が
笑いながら大切そうに話してくれたことがある
海辺にある公園を毎日散歩していると
おばあちゃんに連れられた3歳くらいの女の子に出会う
その子がいつも同じ歌をうたっている
その歌は「アンパンマンマーチ
歌詞には哲学があってかわいくてとってもいい
女の子は勇気凛凛としていてかしこそう
覚えている歌詞を教えてくれた
子供の歌にしては人生訓などを含んでいてすごい
歌詞は軽快でほろりとさせるところもあり
メロデイも海辺で見つけた模様が念入りなマキガイのところまで駆けて
たどるなつかしい道を思わせる
教室ではリクエスト曲を受け付けているので
次回からオカリナで「アンパンマンマーチ」を練習することになった

















「アンパンマンマーチ」(歌詞 やなせたかし)


そうだ うれしいんだ 生きる よろこび
たとえ 胸の傷が痛んでも
(間奏)
なんのために 生まれて なにをして 生きるのか
こたえられないなんて そんなのは いやだ!


(星笛館主・以下たたみこむような同じメロデイーではまってしまう)
今を 生きる ことで  熱い こころ 燃える
だから 君は 行くんだ ほほえんで
(星笛館主・ヒーローはいっつもどこかへ向かっていますがいつもどこへ?)

〜(同じ歌詞なのでしばらく省く)

いけ!みんなの夢 守るため
(星笛館主・またどこかへ向かっています)

なにが君の しあわせ なにをして よろこぶ
わからないまま おわる
そんなのは いやだ!
忘れないで 夢を こぼさないで 涙
だから 君は とぶんだ どこまでも
(星笛館主・またどこかへ向かって今度は飛んでいます)

そうだ おそれないで みんなのために
愛と 勇気だけが ともだち
ああ アンパンマン やさしい 君は
行け! みんなの夢 まもるため

(星笛館主・以下また説得力あるメロデイーでたたみこみます)
時は はやく すぎる(星笛館主・身にしみる)
光る星は 消える だから 君は いくんだ ほほえんで

(星笛館主・以下同じ生きる よろこびの歌詞が続き)
どんな敵が 相手でも
行け!みんなの夢 守るため

(星笛館主・アンパンマンはみんなの夢を奪う敵と戦うために敵のいる
場所へ向って行っているようだ アンパンマンの敵と言ってもバイキ
ンマンとかでかわいい、普通の大人にとっては雑事とか、得体のし
れない国政とか、ゆるいのも含めて無差別殺人とかがあるが)

諦めが肝心

小さい頃から味付けされた美談を聞かされると恥ずかしい思いがわきあがった
全ての人がそうしなければならないような、押しつけがましさを感じ、すぐにそ
の場を立ち去りたくなったががまんしていた
他の選択は口に出してはならず、思い描いていてもならなかった
一方的に周囲をがんじがらめにし、まかり通る美談には閉口する
誰が何のために、何の目的で美談を今必要としているのかを考えると
たいていは噴飯ものであったりする




小学生の頃
通りがかりに子どもと遊んでくれる八虎(はっとら)さんと言うおじいさんがいた
やさしい恵比須顔の良寛さんのようなおじいさんだったので子供の間では大人気だった
ある日、みんなで両手を結んで人差し指2本でお尻を突き上げて狙う遊びをしていて
通りがかった八虎さんを巻き込んで遊んだ
八虎さんも声をたてて笑い転げていた
ところが、八虎さんは田舎の警察に言いつけて
遊んだ仲間を悪童呼ばわりした
警察に一緒に遊んだ子供を売り渡したと言っても過言ではない
なぜその時に「やめようや、おじいさんはこの遊び好きじゃない」と言わないのか
お尻チョップがおじいさんの何を立腹させたのだろうか
おじいさんが女の子や男の子にしたお尻チョップはセクハラではないのだろうか
その日から八虎さんは同類ではなくなり、偏屈じいさんとして皆から忘れられていった
長じて詩人たちの行事に参加する折
世話役の詩人のおじいさんにも「え?え?え?」ということが何度もあった
迂闊に道も聞けない
おじいさんに追随するおばあさんもいて2人は夫婦の場合が多い



親しい友人や肉親を亡くした者は
どのような慰めの言葉にも慰められることはない
亡き人は帰ることはなく
去られた者は
聞きわけなくも理屈抜きで亡き人に戻って来て欲しいと思っているからである
ただ、確然としたお悔やみの言葉は身に沁む


灼熱地獄とはこの世のものでもある
また寒風吹き轟く氷池地獄とは生き身に生ずる
「何でこんなに苦しむようになっているのか」と言ったら
ある人に「諦めですよ、諦めが肝心」と返されて
なんというすがすがしさ!
すっきりとした充実感を得ることができた

復帰

崩れていたパソコン
なおしこんでいた漫画を読む以外は
文字離れしていた私も
復帰することができた

昨年11月に父が他界した
父の骨はのどぼとけと顔面以外は
親類縁者の見守る中
弟からすりこぎで砕かれて
大小の2つの骨壷に納めれられた


その骨壷の中の骨を何度も見ているのに
私は
父の姿を捜して
よちよち歩きの幼児のように
凍て枯れた野原をさまよっていた

積もり積もってかさぶたになった愛憎をけりやぶって
過去の時間がなだれ込み、現在を飲み込んで未来に吹きあがり
未来からやってくる嗚咽と過去からやってくる嗚咽が
黄泉の曇り空色した人型になって内から私を襲った


病院から運ばれてくる父の遺体よりも先に戻って
蒲団をしいた
家の長い長い廊下は踏むと
ドミノ倒しのように、次々に枯れ草を閉じ込めた氷原になった


枕経(まくらぎょう)は
俗世の馴れ歌のようで
気を紛らわすことはできたが
慰められることはなかった
その方たちの信心では
死者には魂も何もなく
占い、オーラ系は禁止
お経は現世に生きる者のためにあり
死者のためには唱えられないという
読経の声に幽玄の美、無心の闊達がなく
いかにもというところ

ぼんやりとした霧の中で
信じた明かりに向かって進んでゆくのが
その方たちの信心の在り方
ブリューゲルの絵に
杖に連なっためくらがめくらを導こうとするものがあったが
心底落胆した
暗い深海で呼び交わしあっても
魂に響かないのであれば、不安がつのるだけだ
金子みすずの詩の引用で
「見えないけれどもあるんだよ」が
四十九日のお説教に出てきた
それなら
ゴースト、妖精、妖怪、幽霊とかあなたたちには見えないものですけど
見えないものでもあるんですかね・・・