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「花の谷」時空のエロス NO68

官能ラブロマンス映画「花の谷」の静止した宣伝写真女優ミレーヌ・ジャンパノイは、妖味と気品はそなわってはいるものの、見る角度によっては、お笑いタレントの青木さやかにそっくりだが、動き始めると全く似ていない。
こんなことってあるんだ。
春がめぐって来て、沢山の恋愛映画を見たが、ミレーヌ・ジャンパノイと言う女優は、同性愛の映画「中国の植物学者の娘たち」で知った。
官能ラブロマンス映画「花の谷」(時空のエロス)では、中国人の父とフランス人の母から生まれたミレーヌ・ジャンパノイの中には、東洋の神秘とヨーロッパの骨格の美しさが強調されて浮かび上がる。
役柄は直観力のすぐれた絶世の美女巫女のウシュナ役。
19世紀初めのヒマラヤ奥地の山賊たちの物語である。
フランスの女性冒険家で小説家のアレクサンドラ・ダヴィ・ニール(1868〜1962)の書いた小説「Valley of Flowers’」が映画化されたもの。
彼女は、女性で初めてチベットのラサを訪れ、25年かけてチベット文化やヒマラヤ山脈に関する研究をした。
現存した彼女の写真を見たが、魔法使いそのもので、髭は確認できなかったものの美丈夫な怪物である。
妖力を持ち魔法を使うウシュナは、財宝を持ったキャラバンの通る道を手に取るように見透すことができ、山賊たちから一目置かれるようになる。
まあまあの魅力を持つ美男、首領のジャランはウシュナの神秘的な魅力に惹きつけられ、夜を共に過ごすようになり彼女と別れられない。
山賊の首領が仲間といるよりもウシュナにべったりとし、あとを追いかけずにはいられなくなると言うのは何かとつごうが悪い。
それまでに女性と昼夜を共にしたことがなく心底惚れこんでしまったのだから仕方ない。
孤立してゆく2人の追い詰められた情念は研ぎ澄まされる。
ウシュナの妖力のためか、ジャランと抱き合った空中浮遊は息をのむほど美しい。
手4本脚4本の男女の一体化した生き物が、水のうねりの中、風の蛇と絡みあっている。
いつまでもずーっと見ていたいので、時間がたつのが惜しく残念だ。
美しい2人の空中抱擁シーンはタルコフスキーの惑星ソラリスの男女の空中浮遊よりも時間は長くみずみずしい。
物語の後半で、2人は不老不死の薬を手に入れる。
薬を飲んだ2人は油断し、死ぬはずのないウシュナはピストルに撃たれて死に、山賊の首領ジャランだけが生き残る。
ヒマラヤの不老不死の薬がなぜジャランに効いてウシュナに効かなかったのか訳が分からなかった。
そんな変なことがあるのかと思っただけ。
山賊の首領のジャランはスーツを着て東京に現れ安楽死を手伝う仕事をし、ウシュナの魂の宿った女に出会う。
彼女は、ウシュナの生まれ変わりにしても、前のウシュナには似ても似つかない。
容貌に情感がなく、なにもかもがすれた感じのホステス。
ホステスはいいが、女優がすごくお粗末(星笛館主の好み)。
女性客も多く、ほとんど濃い隠微さが感じられなかった団鬼六の小説を映画化した映画「花と蛇」に出演した杉本彩なら、ウシュナ役もやれるかなと感じたが、彼女はマゾ的なのでウシュナ役の透徹した冷淡さ、残酷さが出せない。
前半ミレーヌ・ジャンパノイの神秘的な美しさを楽しめたからいいかと思う。
花の谷はインドの北にあり、中国に国をのっとられているチベット自治区が近い。
谷に咲く青い芥子の花を見に行きたいと思っていた場所だ。

とんだ指揮棒

オカリナ講座の練習時の指揮棒は、机を叩いてリズムを取らなければならず、空中で振る指揮棒にもしなければならないので、木琴用の丸い球の付いたバチを使用している。
バチの棒部分は肌色に近い薄い茶色、玉は濃い茶色で、鹿の子百合の雌しべが瞬時に固まったような可憐な印象をうける。
3月27日は、オカリナ講座の生徒の女性Nさんが5歳の時(1945年)に福岡の甘木市の頓田の森(とんだのもり)で低空飛行の爆撃にあい九死に一生を得た日である。
Nさんは無傷で助かったのだが、彼女の兄を含めて31名の児童が亡くなり、その内の24名が即死だった。
3月に現地(3回目まで)や教室で31名の子供たちの慰霊祭をやり始めてから9年がたつ。
今年も子供たちが通っていた立石小学校の校歌や童謡唱歌の「ふるさと」「春の小川」「めだかの学校」「靴が鳴る」「アンパンマンマーチ」、「てのひらに太陽を」、「ビリーブ」、「千の風になって」などの曲を吹奏した。
立石小学校の校歌は、誰もがどこかで聞いたことのあるようなメロディーだ。
毎回、31名の児童を呼び水に、ひとりひとりの胸に生きている亡き人の面影が鮮明に浮かぶようだ。
個人やグループの腕試しのお遊びとして、各場所を回って行事をこなす吹奏ではなく、死者たちのためにも演奏することが講座の主軸としてある。




最後の「千の風になって」の曲の途中に、右手に持った指揮棒がするりと抜けて、教室の前から右横に向かって5メートルあまりまっすぐ飛んで机に当たり、カッタンと音をたてて落ちた。
頓田(とんだ)の森の慰霊祭なので、「飛んだんだ」と言うダジャレを言っても許される信頼関係の出来上がっている教室では、楽しそうな笑いが起こった。
何を言っても盛り上がりに欠ける、聞いているのかいないのかもよく分からない文学系の説教臭い・・・会には腸がたるむほど退屈さを感じているが、信頼関係の問題なのだろうか?


「きっと子供たちが童謡唱歌を一緒に歌って楽しくなって、いたずらで指揮棒を飛ばしたんだ」と言うことになった。

取っ手が見つからなかったりして 「小耳にはさんだこと」

電車内の入り口付近で2人の恋人未満の男女が話している
話す前も、話している途中も、話が終わった後も2人の笑い声が会話をはずませている
人生の春
知り合って間もないころなのか


学生風女 「こんなギャグなんか好きなの?」
学生風男 「うん 面白いのは引き出しに入れてちゃんと鍵かけて とって
                                    おくよ」
学生風女 「そっか しっかり鍵かけてとっておくんだ」




(星笛館主のひとりごと)
彼は、僕は君との秘密が守れる男だと彼女に言っているようなもんだ
吹聴するような恋ではなく、しばらくは静かな苦しい恋を所望する彼
彼女は念を押して彼に恋の成長を確かめている 
互いを理解しょうと努力する 微笑ましい探り合い






学生風男 「鍵かけてとっておいても気がついたら、引き出す取っ手が
        見つから なかったりして」
学生風女 「そ そ そうそう あけられなかったりして」



2人の大笑いが車内にしばらく響き渡る


 (星笛館主のひとりごと) 
彼らはもう一歩がまだ踏み出せないが、はじまりかけた
恋に出会わせてもらった
 すごくロマンチックだが、エロチックなものにも聞こえる引出しや鍵の話
自分たちは、悪気のないおっちょこちょい者だねと言いあっている
 能ある鷹が爪隠す状態にいようとする



男女しばらく楽しそうに笑っている


学生風男 「どこ住んでんの」
学生風女 「いなか  山、 田んぼ通って 自転車で来ている」
学生風男 「田舎は好きだな」



(星笛館主のひとりごと・遠回しにあなたが好きと言っているのと同じ)



学生風男 「街は嫌いで、前、 山をバイクで走るマウンテンバイクやってたし」

 (星笛館主・今度山を案内してよと言う含みか、自然児を印象付けている)






 学生風男 「街に出てくるのは好きじゃないけど、用事がある時に出てく
          るのは慣れたよ」
 (星笛館主・君と会えるならいつでも町にも出てくるよと言うこと)

映画「中国の植物学者の娘たち」 NO67

題名に魅かれて、忙しい最中にも関わらず、重い足腰に鞭打って見に行った映画だった。
容貌と肢体に恵まれた美しい娘たち
湖に浮かんだ島の珍しい植物が生い茂った植物園
木の影が映る古風な研修室
高山の薬草採集
赤いランタンを灯した村の結婚式
期待しながら見ていたが充分に満たされた。
2人の女性の同性愛の物語だった。



文化大革命の時、ダイ・シージェ監督は17歳で、地方を再教育するために山村に送られた(下放 げほう)。
その体験を元に制作した映画が「小さな中国のお針子」だった。
今回の映画「中国の植物学者の娘たち」も前回の映画と同じように問題意識がはっきりしており、水と湿気を帯びた大気感と、山々に関連する映像やセックスシーンが幻想的で非常に美しかった。







植物学者の植物園は湖の中に浮かんでいるので、船で行かなければならない。
美しい島を、航空写真で見てみたかったが、中国内での撮影は禁止されており、撮影現場のベトナムではヘリコプターを調達しての撮影は無理だったのかもしれない。
孤児院で育った娘ミン(中国とロシアの混血)が実習生として住み込み、植物学者の娘アン(中国人)と出会い、2人はお互いに愛をはぐくむようになる。







植物学者の父やアンの兄(軍人)は、気に入らないことがあるとすぐどなり、粗野で横暴で暴力をふるう人たちである。
父や兄は権力の象徴だろう。
それに比べて出会えたことを喜び、お互いを理解しょうとする娘たちのふるまいの、なんと優雅で優しく美しいことか。
2人の娘たちは自分たちの愛が、世間では同性愛という呼ばれ方をしていることすら知らない。
この映画は、中国で工場に勤める2人の女性が同性愛者で、父親を殺し死刑になった話が元になっている。






父親から、たまたま帰郷していた兄(軍人)と実習生のミンが無理やりに結婚させられそうになる。
動揺するアンに、実習生ミンは「私はあなた以外誰も愛さない」と言う。
お互いに「永遠にいっしょにいるわ」とうなずきあう。
同じ場所にいたとしても孤立感のある孤独な現代において、泣きたいくらい共感が成立している(心が通じ合っているとも言う)よいせりふを聴くことができた。
2人の娘が手錠をかけられた時に、「私たちを真に裁けるのは私たちの愛情だけ」だと言うせりふもあった。
実習生のミンが、娘アンと裸で寄り添っているのをのぞき見した植物学者の父は、ミンを殺そうとするが逆に娘アンから殺されてしまう。
正当防衛なのに2人の娘は死刑(銃殺)を言い渡される。


重要な根幹を成すせりふやストーリーのここだけは見逃せないシーンを押さえたい。
そうしないと扇子の要の部分が無くなり、この映画を取り上げた意味がなくなり、他の似たような映画を取り上げても別にかまわなかったことになるからだ。









山に薬草を集めに行く時、立ち寄る薬草院のやさしいおじいさん(院長)と孤児院の女性院長さんの2人がいてくれてほっとした。







孤児院で育ったミンは、孤児院の女性の院長さんに手紙を書いて、自分を処刑する銃の弾のお金を払ってくるよう、2人の遺灰は一緒にして湖に散布してくれるように頼む。
薬草院のおじいさんと孤児院の院長さんの手によって湖に2人の娘の遺灰が混ぜられて散布されるシーンは、哀しく祝祭的で美しかったがその反面、怒りが込み上げてきた。









監督は「自由な恋愛が許されない社会を客観的に描きたかった」と言い、自分は同性愛者ではないので同性愛のことがわからないと言っているが、だからと言って同性愛を否定していない。
また分からないと言うレベルは、自分が同性愛者ではないので分からないと言うレベルである。
殺人を犯したことがないから、殺人者の映画が撮れないことはないと言うのと同じである。
話は異なるが、殺人者の映画を作るからその監督が、殺人を容認しているわけではないと言うことも言える。
世の中には、きれい事だけではなく闇や裏や影があるんだと言うことを再考するように、世に問うているわけである。

いじめ役を演じる役者さんが道を歩いていると、物語と現実の区別ができない人がいて、本当に石が飛んでくることもあるらしい。
世間では、石が飛んでくるのはまだいいほうで、掌返したように無視されることのほうが多い。
現実と創作の違いが分からず、区別ができない人たちがそんなことをする。
映画「中国の植物学者の娘たち」と映画「小さな中国のお針子」は中国では上映禁止映画である。
ダイ・シージェ監督は、四川省生まれ、両親は医師、キリスト教の牧師の祖父に育てられ、現在はフランス在住。

「毛皮」 星笛人のつれずれやぶにらみ

一人暮らしをしている母のところに帰って、家にいついているノラの黒猫ぷーちゃんのビロードをさわっていると催眠術にかけられたように眠くなってくる。
適度な体温となめらかに揺れ動く黒毛、ぐるるると言う喉を鳴らす音は、常に春や秋の日向の陽ざしの中でまどろんでいる気分にさせてくれる。
黒豹やライオンや虎には触る機会がないので、黒猫のぷーちゃんを触りながら、黒豹の腹を枕に眠り、ライオンに髪をなめられ、虎の背に乗って竹林を走る夢を見る。
らんらんと輝く金色の目はこの世の宝石に等しい。
田舎に育ったので、日本犬(ぽちくん)や牛や馬の毛の肌ざわりは覚えているが、糞(ふん)がらみの匂いのまとわりつく記憶なのでいただけない。
彼らは、小屋の中や周辺に落ちている、自分の糞(ふん)を踏んでもテイッユを使えない。
田舎道に落とされた犬や牛や馬の糞(ふん)は片付ける人もなく、雨に打たれた後、道に溶け込んでいく。
昔は、田畑の肥料にするために牛糞、馬糞をとっておく小屋があって秋になると発酵した糞(ふん)から湯気があがっていた。
ある日、山積みされた糞(ふん)の湯気の中にむっちりと太った無数の芋虫がころがっていた。
かぶと虫の幼虫なのだが、子供の時には、ネズミぐらいあるエイリアンに見えた。


現在は、本物の毛皮は個人的には金欠で手に入れられないので、毛皮にそっくりな人口のカーペットや毛皮布を素足で触ったり、頬にあてながら両手でなでさすっている。
本物の毛皮には抵抗を感じるが、身につけたらどんな夢が見られるのだろうか。
ハンターに殺される悪夢か、原野を走る夢か、手放さなければならなかった人の悲哀や、加工者の意識が詰まっているに違いない。