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永作博美の「人のセックスを笑うな」と「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」NO70

厭らしさや敵意がなく、同性にも受けいれられる色気を持った<エロかわいい>女優、永作博美がいなければ、映画「人のセックスを笑うな」(ポルノではない)は、見応えのない大甘の若者向け青春映画になっていただろう。
なぜ永作博美がいるだけで、世間一般ではご法度のことをしていても共感を呼び覚まされ、そう言うこともあるかもしれないと思ってしまうだろうか。
永作博美が演じるユリは美術大学でリトグラフを教える講師をしているが、15歳年下の19歳の男子学生と恋仲になる。
きっかけは煙草の火を校内のベンチで借りたことで、男子学生がユリの部屋をのぞくようになり、リトグラフの印刷の手伝いをさせ、そのまま男子学生をアトリエとして借りている家に自転車の相乗りで連れて行き、裸体モデルとして一枚一枚衣服を脱がせてゆく。
永作がやる誘惑はちっとも厭らしくないから憎い。
目的に対する羞恥心があからさまな思考を排除し、まるで無心なあるがままの行動をとらせる。
先がどうなるか分からない人生の処し方を体得しているのか、目的に至るまでの美しい姿勢の維持に真面目な必死なかわいさがある。
ユリの笑顔で蟻地獄に招き入れられた若い男子学生の頭に血が昇り、襲いかかるのも無理はなかろう。
ユリにはおっとりとした写真家の夫がいるが、男子学生はそのことを告げられていないので知らない。
ユリは夫と男子学生の間を行き来する。 
ここら辺で世の常識者から攻めれても仕方あるまい。
やがてそのことを男子学生が知ることになり男子学生は苦悩する。
ユリは男子学生には何も言わず、美術大学を辞め夫と共にインドに旅行に行ってしまう。
永作博美が演じなければ、ものすごく勝手気ままな自由奔放な淫乱女だが、永作博美が演じると奥に悲しみを隠しているかわいい女になってしまい、年下の若い娘の輝きさえも永作博美の前では消えてしまう。



映画「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の永作博美の役は、家族に憧れている孤児の待子役である。
夫の両親が交通事故で無残な死に方をしたので、待子の義理の妹のスミカ(女優志願で東京で芽が出ない)が葬式に出席するために帰郷する。
夫は、血のつながりのない連れ子の妹スミカと肉体関係があり、妻の待子とはずっと清い仲で暮らしている。
待子は、自分に触れようとせず、義理の妹にばかり気をつかって言いなりになる夫に不信感を抱くようになる。
葬式の日、もう一人いる下の義理の妹キヨミ(漫画家志望)のぜんそくが起き、待子はちゃんと妹を気に掛けていなかったかどで夫からみんなの前で殴り飛ばされ、横向きにごろごろと無残にも5回転させられて止まる。 
ぜんそく発作は気にかけていても起こるもので、待子のせいではないのに何というみじめな屈辱であろうか。
待子は、それでも明るくふるまいごめんなさい、すみませんを繰り返す。
待子は何事に対しても怒らず下女のように立ち働いている。
夫は蕎麦のつけ汁に葱を入れない趣味であるが、待子が葱を入れてしまったので、怒り狂って蕎麦とつけ汁の入った器を派手に投げ散らす。 
夫は、妻に暴言を吐き、暴力をところかまわずふるうことで、世の中に対する鬱憤を執拗に晴らしているようなものだ。
日本の男で家族の前で大声を出して威嚇し、飯台を倒すか投げたことのない男はほとんどいないのではないかと思う。
昔、「寺内貫太郎一家」と言うテレビ番組にそう言う父親が登場したが、日本の庶民のほとんどの父親には道端に痰を平気で吐き捨てる様子と同時に、暴力をふるうイメージしか湧いてこない。 

コンタクトを入れていた待子の目に蕎麦のつけ汁が入り、目が痛み始めて畳の上を転げまわる程になり、救急車が呼ばれ入院してしまう。
夫は謝りもせずやさしい声一つかけない。
いつもけなげで気さくでやさしいけれど、さえない待子が退院して帰る道で、妹に肉体関係を迫られて逃げてきた夫と偶然出会う。
待子は、夫が迎えに来てくれたのだと勘違いして、何も知らずに伊豆の踊り子のように新鮮にかわいくはしゃぐ。
胸が痛くなりたまらなくなる場面。
こう言うことをさせたら永作博美の右に出る女優はいないだろうと思う。
待子の趣味は、布製のなかなか素敵な人形を作ることである。
人形は、待子のすべてが内蔵されている箱の入口の花のようなものである。


やがて夢破れた女優志願のスミカが家にいつくようになる。
彼女は昔から女優になる資金をためるために売春をしていて、その虚しさから血のつながりのない兄(待子の夫)に自分だけを愛し必要とするようになれと、ベットの上で刃物で脅迫する。
勢いにのまれた夫(まだ独身の時)は、抑制できず性欲に飲み込まれてしまう。
やがて夫は死ぬ。
肉体関係のある妹と、退院後に押し倒されて一夜を共にした妻の間に立っての、自殺ではなかったのかと思う。
無理やりに夫を 押し倒し思いを遂げていたのは、何と妻の待子である。
映画館で拍手が起こった。
永作博美ならではの共感だ。
すべてを隠れてのぞき見ていた義理の妹のキヨミは姉のスミカと家族とのドロドロを漫画に描いてグランプリ賞を受け漫画家デビューのために上京する。
広い家の中で待子はこれから1人暮らし、恋人を作るか再婚して子供も授かってほしい気がする。
腑抜けどもは、ちゃんと悲しみの中でもがき苦しみ、複雑な愛情表現できらりとしたものを見せてくれた。

「ノーカントリー」と言う殺し屋の映画 NO69

2008米アカデミー賞4部門獲得
殺し屋シガー役のハビエル・バルデムは助演男優賞を獲得
監督 コーエン兄弟
マッカーシーの小説「血と暴力の国」(米)







お決まりの人間味に慣らされた感動受信諸器官には一切触れてこない男。
おかっぱでギョロリとした二重の目を持つ濃い容貌の殺し屋シガー(ハビエル・バルデム  スペイン出身)には、オセンチも本格的な愛情も助かりたいだけの説得も通用しない。
殺し屋を突き動かしているのは、暗黒の古代神話であるとしか思えない。
人は己の暗黒と一度は同化して対決し、小規模な勝利を何度も繰り返さなければ、光が見えては来ないのではないか。
それにそれが光であると言う保証はどこにもないのだ。
しかし一般的には、いたずらに暗黒を探索するより、見て見ぬふりをした方が己のためだ。
争いの悲惨な場面を好まない人々は、争いの原因を探ることを見事に忘れ、正義を振りかざすことだけに声高になることが多い。
殺し屋シガーは、表情も変えずスタンガン(高圧ボンベ付き・家畜を殺す武器)を使用し、錠を吹っ飛ばし部屋に侵入して相手を殺す。
一瞬のうちに息の根が止まるので、恐怖を感じる時間は短い。
架空のこの男の異様な存在感に、昼夜うなされ気味だが、物理的な威力を持った武器を持つことのない世間での、売られた喧嘩の予期せぬ戦いの場面に出くわしてしまった時には、シガーの鬼気迫る冷徹な判断力が欲しくなる。
殺し屋シガーは、相手の生と死を勝手に賭けた不可思議な質問を、静かに強烈に押し付ける。
言い淀んだり、おかしな返答をすると、地獄の底から湧いてくるような静かなシガーの怒りを買うことになる。
正体不明の狂気の殺し屋のスフィンクスめいた問いから普通人が助かる道はただ1つ。
コインの裏が出るか表が出るかを当てなければならない。
人生、生きるも死ぬも賭けのようなものだと言っているのだろう。


殺し屋シガーの車が道で故障した時など、車から降りて親切に声をかけてくれる生活者のおじさんたちがいる。
シガーは普通に彼らと話しを続けるが、用事が済んで車で立ち去ろうとするような、通常の常識にのっとった行動を彼らがすると、シガーに物を簡単にどかすように殺される。
まるではじめから彼らの車がシガーの車であったかのようだ。
シガーは車が必要だっただけである。
おじさんが、車を狂気の殺し屋シガーに簡単にくれるはずもなく、そう言う彼らの不徹底な親切が、思考する殺し屋シガーにとっては野次馬的なおせっかいに愚弄されるように感じられるのだ。
昨今の日本の、誰でもいいから殺してみたかったと言うガス抜きの衝動とも少し違った精神構造で予測不可能だ。



ストーリーは、ベトナム帰還兵の男モスが、テキサスの荒野でヘロインの取引抗争で死んだ男たちの大金を偶然拾ったところから始まる。
鞄の中の大金に位置を知らせる機材が仕掛けられているので、探知機を持ったシガーからどこまでも追われることになる。
シガー以外の男たちの人間的な感情は通常の理解の及ぶ所で保たれてはいるが、予想の付かないシガーと比べると愛憎の幅が狭く浅く、中途半端に見える。
ラテン系の男優ガエル・ガルシア・ベルナルの演じるエルビスが、父の牧師宅を訪問し、次々に腹違いの弟や義理の母を殺す映画「キング 罪の王」もすごかったが、殺人に必然性がなく、意味は不明のまま咄嗟に殺人が行われた。
娼婦だった母の怨念がエルビスの中に巣食っていたとしか思えない惨劇だ。
映画「ノーカントリー」の殺人は意味がシガーの言葉で明らかにされるが、まだ残る判明されない暗さは古代神話的な暗黒から来ていると言ってもいいだろう。


シガーに追い詰められて殺されたベトナム帰還兵の男モスとシガーには1つだけ共通点がある。
別々のシーンなのだが、2人の男が怪我をして血まみれの衣服で苦しみながら逃げるシーンがある。
2人とも血のついた上着と取り換えて目立たなくするためなのか、道で出会った少年に着ている上着を売ってくれと懇願するのだ。
少年は上着くらいあげるよと言うのだが、2人はただでもらうのではなく金を払いたいと言う。
ベトナム帰還兵のモスは気の弱さから、少年たちに押されぎみである。
シガーは、腕の骨が見えている怪我をしていると言うのに強気で、いらないと言う金を少年たちに押しつける。
現世において地獄の沙汰も金次第と言う美学でもあるまいが、金を払って買えば、すっかりあとくされなくなるからだろう。



何よりも一番恐怖を感じたのは、ベトナム帰還兵モスの葬儀の後、女房のところに、シガーが現れた時だ。
ドアを開けるとシガーがソファに静かに座っている。
例によって、シガーは射程距離に入っている者に、理路整然とした会話を吹っかけてくるが、これが震えが止まらなくなるほど恐ろしい。
相手のどの言葉も取り逃がさない、執拗に追ってくる几帳面さは哲学者風でもある。
シガーは、ベトナム帰還兵のモスにした約束、「事件にかかわった者たちを殺す」を妻に実行しにきただけである。


「ノーカントリー」はアカデミー賞の作品賞・監督賞・脚色賞・助演男優賞の4部門を受賞した。
もし「ノーカントリー」がアカデミー賞を獲得せず、私的には2人とも支持していない歌手のチャラとその夫の浅野忠信の映画「モンゴル」が外国映画部門賞を受けていたら、しばらくはアカデミー賞のアの字も見たくはなかったろう。 なぜ「モンゴル」がノミネートされたのかも理解しがたい。