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松田翔太と笹野高史の映画「イキガミ」(監督・瀧本智行)

イキガミとは、逝紙のことで、太平洋戦争時の赤紙を連想させる。
[国家繁栄維持法]と言う法律にもとずいて届けられる死亡予告証のことである。
日本語が使われている架空の国では、小学校入学の時に、男子だけにナノカプセルと言うものが接種される。
彼らが18歳〜24歳までの間に、1000人に1人の割合でいきなり死の1日前に逝紙が届く。
松田優作の息子の松田翔太(22歳)が出演していると言うので見に行った。
りりしいが妖艶にも花開いていきそうな青年で、背広をピシッと着込んでいる。
松田翔太は厚生保健省課の国家公務員役で逝紙を届けている。
若い盛りの青年が死の宣告を受けた1日後に、突然の死をむかえる。当然家族は悲しみに打ちひしがれる。
常に、死と背中合わせの青年が突然死をむかえることで、家族や友人たちが、命の大切さを身にしみてわかり、人間関係が生き生きとしてくると言うことだ。

逝紙が届いた後にテレビ初出演をしたシンガーソングライターの全身全霊をかけた歌。母親役に歌手であり女優でもあるりりイが出演。
金融の手下になっている兄に逝紙が届き、角膜移植を必要としている妹に角膜を提供する話。
政治犯だったが今はお国のために保守の政治家に立候補した女性。彼女のひきこもりの息子に逝紙が届いた。
よくも考え得たと思うほどの3つの話が展開する。
国家公務員役の松田翔太は、理不尽な「国家繁栄維持法」に怒りを覚えるが、厚生保健省課長役の笹野高史に的確にたしなめられる。課長も理不尽さは感じているが、急いてはことをし損じる、時が来るのを待てと釘を刺される。笹野高史はここでも健在。組織が崩れるのは内部告発以外にない。


映画「イキガミ」の原作は、ヤングサンデーに連載された間瀬元朗の漫画。内容が星新一の小説「生活維持省」に似ていると抗議されて、作品を読んだことがないと関連を否定している。
話は変わるがまたぞろ、▲松▼平氏の小説「二荒」(ふたら)が他作家の小説の一部との類似部分を指摘され絶版が決定している。もう2回目ですね。
自己の仕事に対するに尊厳や良心はどうなっているのだろう。
作品に刺激を受け触発されて新たな作品が生まれることはありますが、あくまでも原作を消化して一度忘れ、自分の血になるまで熟成を待たなければなりません。
指摘されなければそのまま、ほくほく放置して恥ずることがないのでしょうか。

ゾンビ映画の私的効果

うごめくゾンビを客席で眺め、唸り声を聞くことで、もと人間だった彼らの過酷な運命の姿を嫌と言うほど見せつけられる。
画面のゾンビが現実の世界に駆け込んで来るはずはないのに、思わずビクリと飛び上がり、背筋が凍る思いをする。
子供の時から注射が怖い私は、残酷な切断や血が飛び散るスプラッター描写には一生慣れることができないかもしれない。
足を引きずりのたうちまわるゾンビたちの無残な姿に愛憐の情さえわく。

生存しているのに、もうすでに死んでいる形相をした人間たちであふれかえっているショッピングセンター。いやらしくぞんざいな作り声の持主たちがいたるところでアナウンスしている。
そのような現実社会を生き抜くために、落ち込んだ時には、暗い曲をガンガン聴くとホッとするのと同様に、ゾンビから目をそむけず最後まで見る訓練をしているのだが。
現実の社会の疑似戦争の中の一員として生き抜こうとする時、とんでもない悪臭に耐え、焼け焦げてしまいそうな皮膚を持ちこたえさせるためには柔軟な押し返す力が必要となる。
電車の飛び込み事故や車の事故に出くわした時には嫌がらず、ちゃんとした対応ができるようになりたい。
「ゾンビさん練習用に顔貸してちょうだい」と言うことになる。

昔の僧侶は、女人の死体からウジが湧き、赤黒く膨れた腹からガスが噴き出し、髪の付着した白骨に変化し続ける姿を、何日も見続け、世のはかなさや残酷さを実感する修行をした。
女人へのいたずらな思い込みや執着を断ち、過酷な死と生の現実をはっきりと腹に受け止め、さばさばと生きていこうとする。

ハイチ(中米)で発生したヴ—ドゥ—教の呪術師はおとなしいゾンビを作った。
その昔、西アフリカ人奴隷を農園で飼い殺しにするため、傷口にゾンビパウダーを塗り、仮死状態にした。
ゾンビパウダーには、テトロドトキシン(ふぐ毒)が含まれ、目覚めた時には自発性のないゾンビとなっていて、奴隷として農園で働かされた。


私利私欲を増幅させるために、次々に何人もの大人が、みずからに目隠しをし、事故米を幼児やお年寄りたちの口にさえも押し込んだ。
人間は自らの肉体で浄化し切れない毒を蓄積させている。映画では、ここである日、突然変異が起こるのだが・・・・。

ゾンビ映画「デイ・オブ・ザ・デッド」

夏の油照りの最中、異質な闇と涼を求めて、暗黒舞踏風の白塗りもめでたいゾンビ映画を見にいった。
日常から強烈に遠い場所にいるゾンビ効果やいかに。ゾクゾクする快感はいくつもあるが、その幾通りもあるものの中からほとんど使われていない神経の異種感覚を取り戻したい。鈍感な神経に先鋭になって欲しい。



アメリカコロラド州の田舎町が軍によって隔離された。
風邪に似た症状で苦しんでいる街中の人が病院に駆け込んできている。
待合室にいる人々の目が白濁してきて、患者たちは、狼男が月を見て変身するように、どんどん凶暴なゾンビになってゆく。
ゾンビは周りの人間に噛みつき、傷口からゾンビ菌が侵入するので、すぐさまゾンビが増加して、町中にゾンビがあふれ、そこかしこの道にゾンビの流れができている。
原因は、病院に出入りしている科学者による、ワクチンの開発の失敗だ。人体実験をする途中で突然変異が起こり、ゾンビになった人間が次々に人を襲う。
軍のかっこいい女性伍長と相棒の青年(ゾンビに噛まれるが、手当がよかったので凶暴にならず、菜食主義なので人間を襲って人肉を食べない。忘れがたいかわいいゾンビ)、弟と恋人、同僚のアフリカ系アメリカ人が銃でゾンビを撃ち殺しながら一緒に逃げ惑うが、アメリカ軍によってゾンビもろとも町ごと爆破されてしまうのではないかと思わせる一歩手前で映画は終わる。


ゾンビ映画では、地下に埋めた化学薬品が雨で溶け出し、土葬された墓地の死体が液体化した薬品を浴びて蘇生し、ゾンビになることはよくある。
原子爆弾の実験のために放射能を浴びた魚や昆虫や植物が巨大化し、人間に襲いかかる話もよくある。電磁波をあびつづけた死体がゾンビになる話もたしかあったはずだ。
とにかくゾンビは仲間を増やそうとしているように見えるが、人肉を喰らっても消化システムがないので、満腹感も満足感も何もない。美味しいなんて思わないだろう。彼らは何によって突き動かされるのか?死体にどのようなシステムが働いてなぜ動いているのだろう。凶暴さは日本のあらぶる神々以上だ。
映画では、容貌からしてゾンビは人間とは違うので区別はすぐできる。
ゾンビ本人には、全く内面的な質感の経験ができていないのに、人間にはゾンビが普通の人と同じ行動をしているように見えてしまう。つまり「ゾンビ論法の哲学的ゾンビ」があてはまる。
人間はゾンビと違って、感情がわき起こり、わくわくどきどきイライラ感覚の体験ができる。赤い花を見た時、赤の質感を体験することができる。
その質感やわき起こる感情の体験がなぜできるのか、人間の体をとことん解剖しても説明できないそうだ。
科学者がいくら人体を解剖しても、人間が花などの質感をなぜとらえることができているのか説明がつかない。


ゾンビと言う呼び名は、Nzambi(ンザンビ)から来ていてコンゴの神様の名前である。ルーツはアフリカのヴ—ドゥー教で、妖怪をあらわす。
未知の生物、ゾンビに私は時々会いたいのだ。

映画に見られる男女あれこれ「雲南の花嫁」と「コレラの時代の愛」

中国の人口の96パーセントを占める漢族を除いて、中国には少数民族が55族ある。
映画「雲南の花嫁」は雲南省で暮らしている25の少数民族の中のイ族の若い一組の夫婦の物語。
夫婦と言ってもイ族のしきたりでは、結婚して3年間は同居することができない(帰家制度)。
妻が相手の家に手伝いに行くことや夫が妻への届けものをすることはできるが、寝泊まりは別々の家でする。
よく見ていると別居の3年の間に子供ができてもよいようだ。
昼間、夫婦は同室で過ごしてもよく、階下の老父母が孫の顔見たさに2人が結ばれるのを聞き耳を立てて待っている。、
それはいい、それはいいのだが問題は、イ族は結婚する前であれば何人とでも、誰とでも恋をし森の中に消えてゆくことが許されているふうであると言うことだ。
祭りの夜の雑婚はおとがめなし、夜這いもある。
結婚前の自由恋愛の時に、部族全員の男女がお互いに交際相手となって付き合ったことがあるのではないか?
月夜の晩に産卵が行われるのは、種族保存のためにはいいことなのかもしれないが、狭い土地ですべての男女が元恋人どうしであるとしたら、ほとほとまいってしまわないだろうか。
物語の1組の夫婦には、それぞれ思いを寄せてくれる人がいて、2人の結婚生活を見守り、離婚となればすぐさま言い寄って来そうな距離にいる。
いつでも言い寄って来そうな男女の取り巻きは、自由恋愛の時に夫婦が付き合った相手の中の1人なのだろうかと勘繰ってしまう。

ひたむきな自然児のうら若き妻役には、ポスト、チャン・ツィイーと呼び称されている女優チャン・チンチューがなっていて、目を楽しませてくれる。
この妻は、部族の男と相撲を取り、謹慎中におなかがすいていれば汁ビーフンを大口開けてかきこみ、挑戦を受ければ、町まで走りぬくほどのやんちゃぶりを発揮してとってもかわいい。
夫はしきたりと、自由な雰囲気の間を行ったり来たりする真面目な好男子だ。
彼らはあっけらカーンとした人々なのだろうか。
この映画ではよくわからなかった。


中国の少数民族の人たちは漢族の多勢に無勢に押し切られず、人間の尊厳を守られ、自分たちの文化や宗教に敬意を払らわれて幸せに生きていられているのだろうか。
朗らかで誠実な人間性を貫こうとして、闇から闇に粛正されていないだろうか。
民族浄化を推し進められ、拷問を受け、120万もの大量殺戮を受けているチベットのように。




映画「コレラの時代の愛」は、19世紀後半から20世紀かけての南米コロンビアを舞台にした男女の異種な恋愛。
初めは好きだと言ってくれていた女性から、気まぐれな女心と秋の空的にうとまれてしまった男が、51年9か月と4日女性を待ちつづけ再び求婚し、しばらくごねられたもののゴールインする。
気分で男を取り換える小娘の浅知恵に52年近く振り回され執着すると言うことが、理解できなかった。
彼女は別の男と結婚しよい家庭をつくり豊かな老後を送っていた。
美男で医者の夫を深く愛し、浮気をされても許し愛し続けていた。
医者の夫が亡くなると、しばらくは躊躇していたものの、あれよあれよ言う間に男の求婚を受け新婚旅行に出かける(べつにかまいませんが)
シルバーどうしのベットシーンは勝手にやってもらって結構ですが見ていられなかった。
それはいい、それはいいのだが問題は(雲南の花嫁の時にも使った文だったか)彼は、彼女を待つ間に、なんともはや622人の女性とよい仲になるのだ。
男は女から振られて自信を喪失し、泣きつづけてぽっかり空いたハートの隙間を、622人もの女性で埋めていたのだ。
性欲を他の女性で満たしながら、いとしい女性の結婚が解消されるのをひたすら待った。





男がただ歩いていているだけで女性が寄ってくる。
ほんのちょっと会話を交わしただけでも、実によく女性を磁石のようにひきつけ、女性は彼の前で衣服を脱ぐのだった。
見ている方が道路で犬の発情期を見せられているようで落ち着きません。
男の役を怪演したのは、「ノーカントリー」のすさまじい殺し屋役、「海を飛ぶ夢」では体の不自由な男の役を知性的に演じた男優ハリエル・バルデムではあった。
どうぞ好き勝手にしてくださいと、映画館の出口で(入口でもあるのだが)靴の塵を払ったわけである。

今年一番の映画になるか「おくりびと」

コミカルな笑いあり、身につまされる涙ありの映画で観客と共に同じ場面で笑いつづけ、泣きつづけた。
そのためか次の日から2日間耳鳴りが止まらず、悪魔の唸り声のような、水道管に響き渡るような音が反響した。
そのあとは音がよく聞こえるようになり、自転車に乗った身も軽くなり、人をすいすいと追い抜いた。
よい映画は、体調を改善する。


失職したチェロ奏者の大悟(本木雅弘・通称もっくん)が、山形に帰郷して、最初は乗り気でなかった納棺師(のうかんし)の仕事を、妻には内緒でやり始める。
見事な手さばきで亡くなった人の衣服を肌を見せずに、死に装束に着変えさせ、顔の表情を指で丁寧に整え化粧をほどこす。


名脇役の笹野高史は銭湯の湯を沸かす仕事を手伝っているが、焼き場のガス室に勤務している。
今まさにお棺に火をつけるスイッチの番人の笹野高史がガス室を死への入り口の門であると言っていた。


笹野高史が死の門について話す場面で、私は自分の思いの底へと落ちて行った。
ヨーロッパのある街で、私の前を歩いている知人が車にぶつかり、はずみでわたしも引っ張られ雪の道路にたたきつけられたことがあった。
それからの時間はスローモーションで流れ、本当に白い大きな門が私の眼前にしばらく見えていた。
子供や中性の天使が門の周りにいた。
耳にはリルケのマルテの手記のかの有名な「一行の詩を書くにはあまたの・・・・」の文章が聞こえ、日本語でまる一日リピートしつづけた。
映画と言うのは眠っている思いをふと思い出すきっかけとなるわけだ。






暇を見ては、丘や野原でチェロを奏でて人間の高貴な魂を深めている大悟であるが幼いころ店と母と大悟を捨てて女性と逃げた父を許すことができない。
その父親から大悟は、石文(いしぶみ)と言うのを教えてもらった。
自分の心を表す石を河原で拾って相手に渡すと言う手紙なのだが、幼いころ父と子で石文をかわしあっている。
大悟はチェロをおさめるカバンの中に父親からもらった石を入れている。
父親は大悟からもらった白い丸い石を握りしめているのを、亡くなって寝かせられている時に、納棺師の息子によって、手の中に発見される。


妻の美香役の広末涼子がすずやかで雪国にぴったりでよかった。
子供をおいて男と逃げた余貴美子が見せてくれる引き裂かれた心はひたむきで説得力があった。


人が亡くなろうとどうしょうとおなかはすくわけで、納棺の仕事がすんだ会社では、皆で鶏の空揚げにむしゃぶりつき、骨を積み上げる。
社長は2階で魚の白子(小動物の陰のうだったかもしれない)を食する。
動物的な食欲を隠さない人間たち。
社長役の山崎努が何度も繰り返して言う「これが困ったことに旨いんだな」にはなるほどと思った。
社長はどんなことが起こっても「だいじょぶ だいじょぶ だいじょぶ」と唱え続ける。
一家に一人欲しい。

石笛と三村磨紀予さんのピアノ

三村磨紀予さんは若い作曲家でピアノと馬頭琴を奏でオーケストラとの共演もやる。
今回磨紀予さんは曲を作るだけではなく、彼女のピアノと私の石笛との共演で東洋的な奥行きのある音の原型を体感したいと申される。
石笛とピアノの共演が10月20日のコンサートで行われる運びとなった。
それも主に即興で。打楽器奏者も来てくれる。
ああめずらしきかな。喜ばしきかな。
弥生の土笛も磨紀予さんに声をかけられると素朴なため息をもらす中にも、顔つきがつややかになってきた。
オカリナなんて猫が背中をなめるように背をそらし総立ちになって喜んでいる。
美術系の学校のどん尻にぶら下がっていた私は、最近知ったのだが音楽学校を首席で卒業した彼女との交流が、ある意味新鮮だ。
わたしのまわりのクラシックの人は即興をいやがる。さげすみさえする。そ△つら、おっとと、いやその方々の音はいっぺんとうりでこれ見よがしで、固くて、奥行きがない。
やってればいつしか慣習でやれる程度の音。


ある島で何回か土笛と石笛のコンサートを1人でやった・・・・・
そんなこともあったが・・・・
1時間半も一人での吹奏は、体力が持たないし、のってるのは本人ばかりで退屈だった。
ある日、ホラ貝を持った若い男性の石井さんがあらわれたので共演してもらった。
石(意志)と名のつく人と関わりを持てるのは、その時も嬉しいことだった。
強音に次ぐ強音の強烈極まるホラ貝の音響と石笛との戦いのような即興は面白くてたまらなかった。
やってる本人が、落雷や深海からの稲光やオートバイの虹くぐりや虹の炸裂を体感した。
最後は、どんな音が鳴っていても清浄な静けさの中にいて祝祭をかんじた。

作曲家の三村磨紀予さんと私はホラ貝を神社に奉納する若い男性、石井さんの紹介で知り合うこととなった。
どんなめぐり合わせで若き作曲家の三村さんと石井さんは知り合うこととなったのだろうか。


石笛が先に出発した。ピアノは後で前後左右に露を落とし、風を巻き起こした。
ピアノが指さす方向には闇が。
脇から闇をふさぎながら、穴を穿つ石笛。反れながら天空に駆け上がる。
ピアノを吊りながら空を回遊する石笛。
ピアノに促されて石笛から「びいいーん じいいいーん」甘くさえ感じる音が生まれる。
初めて石笛が冷却、沸騰、冷却、沸騰を繰り返しながら速度を持って彼方から彼方へ金粉を散らす。
ほんの5分の即興だったが、やわらかくなったどろどろの岩の中に蓮の花になって立っていた感じ。
10月のコンサートでは、即興に打楽器も入るので面白かろう。
オリジナルのオカリナ曲、弥生土笛の曲も作ってもらえる幸せはたとえようもない。

「崖の上のポニョ」アニメ

恋人どうしと呼ぶには幼いが、人間になりたいと言う5歳の魚の女の子ポニョと5歳の少年の宗介の出会いが、アンデルセンの「人魚姫」の悲恋を思い出させ、恋の成就へ向かっての新展開を期待させてくれる。
「人魚姫」に登場する王子は、自分を助けてくれた女性を勘違いするような鈍感な人物であるが、勘違いされた女性も王子に「自分は人ちがいです」とは言わずに、王子と結婚式をあげるので、2人は似た者夫婦になったであろうと予測される。
「崖の上のポニョ」アニメは少年の方が魚の女の子を助け、他の女の子とポニョを間違えることはない。
2人の先行きは色彩感にあふれた画面のように明るい。
宗介の母親リサは介護施設に勤務していて、嵐であろうと快晴であろうと、道路が海水に沈みそうになろうと、大急ぎで車の運転をして出かける人である。
リサが運転する車のスピードは猛烈に速いジェットコースター級。
「魔女の宅急便」アニメの少年少女の急速な自転車の相乗りや少年のグライダーなみだ。
スピード感のある運転やいきなりだが次々とやってくる事件に対しての瞬時の対応がテキパキしていて気分が爽快になる。
豊かで静かではあるが緩慢な無関心や気まぐれやオセンチはいただけない。
父親は船の船長で妻のリサと少年宗介を深く愛している。
介護施設にはやさしくかわいいおばあさんばかりではなく、物事の急所を突く愉快なおばあさんもいて宗介とはなかよし。
介護施設と幼稚園が隣接して建てられていて交流が毎日あるのだ。



海の生物には、デボン紀、カンブリア紀の鎧を着た様な魚も出没。
DVDが発売されたら、一時停止をして、クラゲをはじめ豊饒な海の生物をじっくりと眺めたい。
魚の子のポニョの母親は船の大きさにもなるが人間並みにもなり、大きくなれば海自体にもなる女神さま(宮崎監督のグレートマザーか?理想の女性か?人類共通の海母神か?)
父親は魔法使いで海中に住み、潜水艦ウバザメ号に乗り、魔魚を操り、蟹よけの結界を張り、海水を浄化して生命の水を作り出そうとしている。
魚の子ポニョの力によって、どうしてか地球と月が近づいて引力の関係がおかしくなり、津波が起こる。
この息をのむような津波の場面は、宮崎監督が18歳の高校生の時に見て将来アニメを作ろうと思うきっかけになった「白蛇伝」東映アニメの津波の場面から溢れて来て増殖したようだった。
「白蛇伝」東映アニメも男女の愛の物語で女性の方が白蛇の精で、少年に助けられている。
今まで宮崎監督が感動を受けた物語や手掛けてきたアニメの場面が拡大されて崖の上のポニョに息づいているように感じられた。