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映画「ラースと、その彼女」

町中の人が、1人の青年に愛情深く接すると言う、絶対に起こりえないことが、アメリカの田舎町で起こった。
登場する人たちが、全員驚くべき善い人たちの、現実とはかけ離れた、世にも珍しい物語。
兄夫婦と同じ敷地内の別の建物に住むラ—ス青年は、ごく普通に働いてはいるものの、人との付き合いが苦手な青年だが、教会には、休むことなく通っている。
ある日、ラ—ス青年は、兄夫婦に彼女を紹介する。
その彼女と言うのは、パソコン通信で買った等身大のラブドール・ビアンカ(リアルな性的人形)だった。
ラブドールに声をかけ、食事も一緒にしているが、彼女用の料理を食べるのは勿論ラ—ス青年。
食物の過剰摂取になリはしないかと、変な所を心配してしまう。
彼は、ラブドールを車椅子に乗せて、どこにでも連れてゆくので、兄夫婦は驚いて医者に連れて行く。
私は、ラ—ス青年の奇行に違和感を覚えたが、どのような展開になるのか少しだけ興味があった。
狭い田舎町の病気を何でも診る医者は女性で、役は女優のパトリシア・クラークソンが演じている。
彼女は登場する人の中で、一番上品で聡明で美しく、好きな女優さんの一人だ。
髪の先、指の先までが優雅で、黄金の光をまとったアメシストなのだ。
人間的な医師としてラ—ス青年のすべてを受け入れ、ゆっくりと心をほぐしてゆく。
ラ—ス青年は、やがてラブドール・ビアンカと教会で結婚式をあげる。
誰一人として陰口をたたく者はいないのが滑稽だ。
気持ち悪がっているのは映画を見ている私だけ。
ラ—ス青年は、死について触れると過呼吸になって尋常ではなくなる。
兄は、父母が死んだあと、ラ—ス青年をほったらかしにして、別の土地に行っていたことを思い出す。
どうも孤独によって精神が病んだようなのだ。
やがて、町中の人から温かく見守られていたラ—ス青年は、職場で思いを寄せてくれている女性とボーリングに行き、たまたま来合わせた青年たちとも遊ぶことができるようになる。
彼は、ラブドール・ビアンカと意見の食い違いを見て喧嘩ができるようになる。
ラブドール・ビアンカと彼の内的な物語は、ラ—ス青年自身がシナリを書いているのだった。
やがてラブドール・ビアンカが死を迎える。彼がそう望んだからだ。
教会で葬式も出す。
誰も可笑しがらない、町の人間関係を使った、ラ—ス青年が選んだラブドール・ビアンカとの生活は、そのまま、善い療法となり大成功を迎えた。
ラブドール・ビアンカが死んだあとは、近所のおばあさんたちがラ—ス青年の家にきてそばにいてくれる。
なにかあった時に、一緒にいてくれる人がいると言うことは、大切なことだ。

映画館の愉快で困った観客たち

<小声で怒鳴るおばあさん>

映画「キサラギ」を鑑賞中のできごと。
笑える時は連続で、3分〜5分に1回は笑えるテンポのよい映画で、若い人たちが劇場の席を埋め尽くし、拍手喝采でどっと沸く笑い声の渦で場内は沸騰していた。
自殺したと言われている、アイドルの如月ミキの追悼で、インターネットで知り合ったファンの個性的な男性5人が会い、言いたいことを言いほうだいに、ぶつけ合う。
私が、右列の左端に座っていた所、ゆっくりと忍び寄る不吉な影が私の肩を叩いた。
暗闇の中で目が合ったとたん、ぞーっとしたが、その無表情な老齢の女性はこんなことを言った。
「大声で笑うのをやめなさいよあんたたち。茶の間のテレビじゃないんだから、静かにせんね。礼儀知らずが」
劇場内の入り口から前列へ、前列から後ろへと歩きながら、こごとを言って歩く老女の顔は冷ややかで何も楽しんでいなくて、むしろ怖い。
無理ですよ。そんなこと。みんなが沸いて喜んで大合唱している気持ちのいい時に。修身の時間を面白く笑える映画に持ち込めませんよ。少しは若者に合わせたら。おばあさん。場違いなのはあなたですよ。何しに来たの。
皆で無視して笑っていたら、かちんこちんになった老婆の影は立ち去った。






<映画館でひっきりなしに光る蛍>

所かまわずちかちかして迷惑なのは、携帯電話の明かりです。
蛍だわ!と思って楽しめる人いますか?
よいと思った映画を選抜して上映しているところは、誇りを持っているので、絶対に携帯電話は切るように注意する。真面目にね。




<暗闇に鳴り響く紙袋の音>

駆け込んできた人が、席について食事をする時、紙袋は上映中にも関わらず、ばさばさぱりぱりとずーっと鳴り続ける。
しかも食事禁止を言い渡されている場所で。
尚、紙袋はずっと持ち続けられているので、足や手が触るたんびに音を立てる。
シーンとしていい場面をやっている時に、紙袋の音が五月蠅(うるさ)く唸っているのが、この方には聞こえていないのでしょう。
たぶん上映中の会話も字幕も、あいまいにとらえているのではないのかな。
お食事はロビーで。

映画 「ミラーズ」

この100年に一度の不況の中、クリスマスが終わり、業者によってデパートや公園に飾りつけられた豆電球のイリュミネーションが取りはずされた。
住宅街の余裕のある家庭人によって飾られ、そこかしこに氾濫していたネオン街さながらの、粗雑な豆電球のイリュミネーションンを、庶民的でにぎやかで、温かな感じだと言って喜ぶ人もいた。
すぐさま、デパートや駅の飾りが正月の用の餅飾りに変わった。
いったいなぜこのようなものが飾られるのか、元の意味を思い出せない人や、根っから知らない人もいる。
原初のエネルギーに触れることもなく、感動が薄くなったパサパサした行事が増えた昨今であるなあと、ぼやきながら何とか生きている。
完全にぼや鬼になってしまっている自分を元気づけるために、街に散歩にでかけ、映画「ミラーズ」を見た。


ネガティーブな言動には、幸運が寄ってこないと敬遠され、事故や失敗を想定した話をすると、暗いと注意される。
また嫌なことを嫌とも言えず、無理やりに胸に押し込み、嫌々ながら丸くおさめるために、好きだと思いこむこんでしまう無自覚からくる弊害は恐ろしい。
ネガ部分を抑圧したままでいると、こんなことは不自然なことなので、3年経ってしまった抑圧、または、10年もの30年ものの抑圧が、出口さえあれば他人に対して噴き出して、暴挙に及ぶことがある。
私は、相手と1対1の時、相手の天使の装いが、見る見るうちに悪魔の暴挙に変化し、自分がサンドバックにされるのをよく体験するが、最後までしっかりと見とどけることにしている。
このひしひしと身に刻まれる嫌悪感が私の身を守ってくれるのだ。
もし翻弄されていることが分かっても、あなたの手にはのっていませんと平然とし、ことを無事成し遂げたことを確認してから、肩の塵を払うことにしている。


愉快犯にとっては、その他大勢に気づかれないように、気に入らない相手さえやりにくいようにやり込められれば、それが愉快で一番うれしいことであり、相手の嘆く姿を見るのが御馳走なのである。
自分が愉快犯だと自覚していない、手に負えない愉快犯もいる。
まさかと思う人物が、まさかと言うことをやっているのだが、証拠が残っていないのだ。
世の中には、人を陥れても、危害を加えても、この相手だったら大丈夫だ、自分に跳ね返ってくるような社会的な影響はないとたかをくくり、自分の鬱憤を晴らそうとする愉快犯たちがいる。
愉快犯がやっていることを理解して、相手にせずに、強く乗り切りたい。




映画「ミラーズ」は、修道院の尼僧の心が、鏡の中に魔物を造り出し、次々に人を襲って殺してゆくと言うものであった。
まさか修道院で敬虔に祈りの生活を送っている尼僧の中の悪魔が、人を襲ったりするはずがないと言うのが、世間一般の常識的な考えである。
尼僧は、現在は穏やかな毎日を送っているのだが、若いころ、心の病にかかり、悪魔つきと言われ、神父たちによって悪魔祓いをほどこされたが、何の回復も見られなかった。
少女だった頃の尼僧は、病院に入院させられ、医師たちによって、天井も壁もすべて鏡の部屋に入れられ、椅子に縛り付けられて、自分との対決を迫られた。
その結果、少女の心は分裂し、その中の悪魔的なものが周りの鏡の裏に魔物として住み着いたと言う設定だ。

病院跡にはデパートが建てられ、鏡の影響もあってデパートが大火災に見舞われ、誰に振り返えられることもない廃墟と化す。
主人公は廃墟になったデパートの警備員になった元警官の夫とその家族である。
息子は、鏡の中の誰かと話すようになり、怪奇な現象は続く。
何よりも怖かったのは、鏡で自分の顔を見た後、うしろを向くと、鏡の中の自分は前方を向いたまま、鏡の前を離れた自分の背中を、じっと見つめているということだった。
デパートの警備員が鏡のかけらで首を切って自殺するのだが、その残酷なやり方をずーっとカメラで追い続けるのには、こちらの神経がまいってしまい見続けられなかった。
監督!いい加減にしてください。これじゃ残酷ものの映画「ソウ・SAW」ではありませんか!
家族も主人公の夫も助かる。
しかし夫には車のナンバーや看板の文字が鏡に映したように、反対に見えるようになり、体さえも左右が入れ替わる。
周囲の人には彼が見えていないようだ。
また難問が降りかかって来て、すっきりしない終わり方だった。

映画「最後の初恋」

初恋が、人生で何度でもあるような映画の題名「最後の初恋」。
最初の初恋や2回目、3回の初恋があり最後の初恋もあるのだろうか。
題名が変わっていて目にとまったが、有閑マダムや有閑紳士の、もの欲しそうな恋の駆け引きばかりが目立つ、いただけない映画ではないだろうかと勘繰って、放っておいた。
セクシー男優のリチャード・ギアと少しくたびれた女優のダイアン・レインの配役を見ても、たぶん客席が中高年で埋め尽くされるのに違いないのだ。
劇場自体が、でぇーえーと(今や死語となった逢引きのこと 中高年はデートをでぇーえーと と言う)をする相手を、探す目つきが交錯する場となるかもしれないと思い、極力避けていた映画だった。
中高年が、そこかしこで「ぐふふふ」と含み笑いをしながら醸し出す、性に対するよだれ現象を苦手とする私が、なぜ「最後の初恋」を見てしまったのか。
その原因は、映画「地球が静止する日」の先行上映を見に行って落胆して気力を失ったことにある。
お口直しをするために、帰宅するための電車駅のいちばん近くにある映画館に向かい、すぐに始まる映画のチケットを何でもいいから下さいと言って購入し題名は聞かなかった。
その映画館は人気のあった映画を3か月遅れほどで再上映するところだ。
客席満員の「最後の初恋」を見るはめになった。
ところが、欲望ギトギトの映画ではなく、人間関係の深みが増すためのヒントにもできるような、情感の質も良い映画だった。
「マジソン郡の橋」や「いつか眠りにつく前に」以来だ。






男女2人の子供の母親であり、夫に浮気された女性エイドリアンと、家庭を顧みず、妻に逃げられ、手術中に女性患者が亡くなってしまった医者ポールが、アメリカ・ノースカロライナのリゾート地の海岸のロッジで出会う。
エイドリアンは友人が留守にして無人になるロッジを5日間だけ手伝いに、ポールは亡くなった女性患者の夫に会うためにやって来ていていた。
エイドリアンとポールは、2人しかいないロッジで、距離を保ちながら、お互いのことについて、思いやりを持ちながら、歯に衣着せぬ意見を言い合い、助言をし、彼女の作る手料理を食べ、台風を乗り切る。
こう言うことは、慣れあってしまって、新鮮味が失せ、浮気による信頼関係の喪失や感情のもつれで、はじき合っている夫婦にはできないことである。
ポールは、僻地で働く1人息子を訪ねた後、エイドリアンの所に戻り、2人は共に生活するつもりだった。


このままハッピーエンドになるはずはなく、なんとなく雲行きが怪しくなってくる前兆を感じていた。
そうならないでくれと思いつつ、何かもうひとひねり変化がないと平凡な映画になってしまうなと思っていた。
ふと彼が車の事故か何かで、亡くなるのではないかと思った。
その前兆とは、2人が海岸で別れる時、1度車を発車させたポールが、もう一度車から降りて彼女に駆け寄り、永遠の別れを予感させるような、たまらない抱擁を繰り返すものだった。
それも美しく。


案の定、ポールは僻地で地滑りで家が流される事故にあって亡くなる。
エイドリアンは悲嘆にくれて寝込んでしまう。
ある日、打ちひしがれたエイドリアンは、前途に希望を見つけ出せるような光景を目の当たりにする。
海岸にあるロッジを訪れたエイドリアンの目の前を、ポ−ルと一緒に見たいと話していた、野生馬が疾走するのだ。
ダイアン・レインのこぼれるような明るい笑顔に、聡明で美しい女優さんだなとため息が出た。

エイドリアンは、結婚前に工芸をやっていて、海岸に落ちている流木で釘のいらないはめ込み式の見事な箱を作っていたのだが、これからはもっと本格的にやるようになるだろう。


監督 ジョージ・C・ウルフ
2008年9月27日公開

興福寺の阿修羅像周辺 / 私感

多くの人を惹きつけてやまない興福寺の阿修羅像について調べているうちに、阿修羅像は少女なのか少年なのかと言う謎の解釈も人によって違い、様々なとらえ方があることを知り面白くなってきた。
作家も歌人も思い思いにそう居て欲しい(居るに違いない)願いを、阿修羅像に見つけ出す。
堀辰雄と井上靖は阿修羅像に少年を見出し、司馬正太郎と三浦朱門は少女を見出している。
また女流歌人や女子高校生は阿修羅像を通して少年に出会い、ある男性の歌人は少女に出会っている。
異聞としては、シルクロードを渡ってきた異国の少年などがある。
私は、阿修羅像に、中性的な魅力を持った少年を見出し、どこからともなく、くゆってくる魔人めいた不思議さに対する怖れを感じる。
同時に守護神の勤めを受け持つ身に対する畏れと敬いを持たされる。


三面六臂の阿修羅像は、奈良興福寺の、乾漆八部衆の中の1体である。
阿修羅像の面は3つあり、眉毛を寄せたその中の1つは、清純な中に悲しみをたたえ、苦悩しているようにも張り詰めているようにも見える。
細く美しい腕が6本あり、2つの掌はあわされて合掌し、後の4本は空中に伸ばされ広げられている。
阿修羅像の胴は引き締まっており身長は153センチ。

古代インドでは、鬼神であったが、仏教に帰依して仏法を篤く守護するようになった。
阿修羅像以外の、興福寺の八部衆(乾漆立像)の、異形の魅力も捨てがたい。
難しいことを言わずに、異様な魅力を発散する彼らと一緒に異界に遊ぶと、いろんな話が聞けるに違いない。
大蛇を神格化した畢婆加羅(ひばから)は横笛を吹く。
象の冠をかぶり、胸から下の体を持っていない五部浄(ごぶじょう)
迦楼羅(かるら)は金翅鳥で、龍が食べ物、一切の悪や毒を食いつくす。


阿修羅像と言う異神の中の人間的な部分を強いて取り出して言及すれば、少女の体をしながら、少年の心を持つ像とも言えるし、少年の体を持ちながら少女の心を持った像とも言える。
そのどれをも含んで、こちらの思いの範疇さえ超え、時によって見る側の見たいように見えて来ると言うことは、ある種の宇宙的鏡像であろう。
見る人の意向や願いを投影して、それぞれが人間的な思いで、嘗て見たことのある少年や少女をその中に見出すことができる。
しかし守護神でもある阿修羅像からは、人智では計りがたい、振動が響いて来る。



光明皇后(701〜760)の依頼で興福寺の西金堂が完成したのは、母である橘三千代(665〜733年1月11日没)が亡くなった1年後の734年1月9日だった。
光明皇后は、亡き母の追善供養のために、母の命日の1月11日に一周忌の落慶式を行なった。
阿修羅像他を作成したのは、渡来人(百済系)の天才仏師、将軍万福だった(将軍位とは関係ない)
阿修羅像は、光明皇后の母である橘三千代や光明皇后の娘の阿部内親王(718〜770)また光明皇后をモデルにしたのではないかと言われているが詳しいことは分かっていない。
光明皇后は仏師の将軍万福の工房を訪れたことがあり、お互いの気迫を理解しあったとも言われている。
天平のドナテッロと言われた天才仏師の将軍万福が、外観だけのモデルを使い、それに似せて、いわゆる写真のような記念像を、機械的に造るはずはない。
共通するものを見抜いて抽出し、それを精神性にまで高め、個性豊かな異神(守護神)乾漆像に結実させたのではなかろうか。



< そう言う向きは沢山いて下さると思うので、宗教や歴史や言語学の研究方面にはかかわるつもりはない。
次回は鬼神のヒエラルキアや他にもある阿修羅像と興福寺のものとの違い、まだ残る謎など、飽くまでも個人的な畏敬の念と憧れから自由に迫って見るつもりだ >


・・・・・続く・・・・・

映画「ボーダータウン・報道されない殺人者」(3)

エバに対する残虐な強姦のシーンを、延々と映し出す映画の意図を理解するためには、エバ役(女優マヤ・ザパタ・メキシコ出身)のリアリティのある渾身の演技に注目する必要がある。
また、シカゴの女性新聞記者のローレンが、メキシコのフアレス市一帯で起きる連続女性殺害事件の事実を知ることによって、なぜ途中から女性の保護や犯人探しに力を入れ、裏にある背後関係の捜索にのめりこんでいったのかを理解しょうとすることが、重要なこととなってくる。

ナヴァ監督は撮影中に、何者かによって、カメラを盗まれたり、弾丸を撃ち込まれたことがあったと述べている。
事件を調べていた人たちが当局に拘束されたり、行方不明の女性の関係者が、彼女と関係のあった男を突きとめたら、その男が急に姿を消してしまったとか言うこともあるそうだ。

ローレンは、初めは上司から、海外特派員の椅子を交換条件にして、連続女性殺害事件の取材を命じられ、特派員の椅子欲しさにしぶしぶメキシコのフアレス市に向かう。
昔の同僚であり恋人でもあった男性記者デイアスの新聞社を訪ねる。
ローレンの下地としては、孤独な激務の中、彼とよりをもどしたいと言う気持ちが働いていた。
彼女は、オフイスに彼の妻と2人の子供の写真が飾られているのを見つけ、彼からも「後戻りはできない、取材にも協力できない」と断られ落胆する。
その孤独感と悲しみの反動と、事件の真相を突き止めたいと言うことがある為に、パーティで会った地元の有力者の男とねんごろになる。


男たちに暴行され、首を絞められ、砂に埋められ奇跡的に助かったエバには、先住民族の血が入っていたが、新聞記者のローレンもラテン系の血を引いており、子供のころは貧しく、父親は農園で働いているところを、銃で撃たれて死んでいる。
父を殺され貧しい苦難の子供時代を送ったローレンと行くあてのないエバのやりきれない苦悩は、お互いを理解させあう。
ローレンは、自分のこととして連続女性殺害事件を捉え直すことができるようになる。
だから決して被害者のエバを裏切らない。
エバを裏切れば自分を裏切ることになるからだ。


協力して連続女性殺害事件の犯人の男を1人捕まえることができる。
それもつかの間、ローレンは、シカゴの新聞社に送って上司に褒められた連続女性殺害事件取材の原稿が、新聞に掲載される寸前に、メキシコと内通しているアメリカ議員の圧力で没になったことを同僚の男性記者の知らせで知る。
ローレンは、エバから「あなたはもうメキシコに戻ってこないかもしれない」と引き止められ、すがりつかれるが、必ず戻って来ると言い放ってシカゴに行く。
上司の考えは、議員の圧力に丸め込まれて、だらしなく正反対になっていた。
ローレンは、上司の圧力への迎合と不正を、こてんぱんに指摘するが、上司の椅子と生活は上司が己と部下を騙すことで保障される。
ローレンは失職する。
連続女性殺人の犯人は釈放される。


ローレンのように、部下が上司に抗議をすると、すぐ辞めさせられるか、取り巻き連中に、とんでもないいじめにあう社会で苦労したことのない人にとっては、単に男の上司に女性が盾を突いているとしか思えないだろう。
特に、男の上司の家族で生活の苦労などしたことのない者たちには、想像だにすることができないだろう。
金に困ったことのない人の、悪気のない天然的な言動は、それなりに周囲を和ませるが、それだけのことだ。
日本では、静かで柔和なのがよいことで、いくら生活にかかわる大切なことだと言っても、騒ぎと悶着を起こすことは、頭から悪いことだと刷り込まれてきているので、新聞記者のローレンなどは、単に変わった女性だとしてしか取り扱われないだろう。


ローレンはエバとの約束を守ってメキシコに戻ってくる。
友情を守ったと言うよりも、さらにもう一歩深い絆を同性どうしが結べるのは、このような痛ましい事件や社会のひずみの被害者だったからだと言うのも情けない。
つかまっていた殺人犯は、裁判の前に釈放され、エバが母と暮らす貧しい居住地を突きとめてエバを殺しにやってくる。
電気の漏電で掘立小屋が次々に燃え盛る中、戻ってきたローレンが殺人犯に見つかってしまう。
ローレンが首を絞められているところを、エバが後ろから殴りつけて助ける。
殺人犯の1人が、焼け死んだところで映画は終了するが、殺人犯はまだ何人もいる。


この映画は、連続女性殺害事件の情報を世界に発信するだけではなく、人間関係の襞もちゃんと掘り下げている映画である。

映画「ボーダータウン 報道されない殺人者」(2)

シカゴで新聞記者として働いているローレンが、取材でメキシコのフアレス市にやってくる。
元同僚で恋人だった男性記者を尋ねるが、協力を断られる。
500件から5000件にも及ぶ連続女性殺害事件(猟奇的殺人)は、いつの間にか当局によってもみ消されてしまっており、この事件をあばこうとすると、協力者は闇から闇に消されてしまう恐れがある。
家族を持った男性記者は、事件に関わらないようにするが、結局は見かねてローレンを援助し、部屋の外から弾を撃ち込まれて殺される。


16歳の先住民の血を引いているエバは、工場から帰宅途中にバスに乗り、運転手に暗闇の砂漠へ連れて行かれ、男の仲間からも暴行を受け、首を絞められて砂に埋められる。
被害者は、実際は5000人近いだろうと言われている。
画面には、砂に埋められた死体や廃工に置き去りにされた死体がしっかり何度も映し出される。
エバは、しばらくして奇跡的に息を吹き返し、砂の中から自力で生還する。
新聞記者のローレンと出会って、殺人犯を見つけようとするのだが、それを知った男たちが殺しにやってくる。
かくまってくれている女性も、いつ何時、男たちにやられるかわからないので慎重に命がけでかくまっている。
エバが新聞記者のローレンとパーテイに出かけた時に、自分を暴行した男の一人を見つけ、暴行時がフラッシュバックされて、狂乱状態になる。
悪夢にうなされることも多いエバは、ある夜、エバの寝室の窓の外に佇む男がいるのに気づく。
かくまってくれている女性はそう思いたいのか、エバが先住民の血を引いた娘だから、未開地の習慣で、夢と現実の間をさ迷い、土着信仰的な幻覚を見ているのだと言い聞かせる。
幻覚や妄想だと言われてしまえば、それっきりだが、画面には木の葉の中に体を隠し、異様な雰囲気で佇む男の顔がはっきりと映し出される。
この場面に背筋が凍りついた。
猟奇事件のことを記事にした女性新聞記者のローレンの原稿は、新聞に載る寸前にアメリカの議員から圧力を受け、没にされる。
いたたまれないことである。
ローレン役の女優、ジエニファー・ロペスは、アムネステイ人権賞を受けた。


2007年 アメリカ映画 112分 (日本公開・2008秋)

映画「ボーダータウン 報道されない殺人者」(1)

これはメキシコとアメリカとの国境地帯にある工場地帯で、現在も引き続き起こっている、連続女性殺害事件の実話にもとづいた映画である。
なぜ、メキシコの工場(マキラドーラ)で働く貧しい娘たちを殺害し、砂漠に放置した、猟奇的な殺人事件の回数が、1993年〜2008年の15年間で、500件から5000件あると言われているのか、その大きな数の違いにまず疑問を持った。
件数に幅がありすぎるのは、いなくなった少女の数が突き止められないからなのだろう。
殺された娘たちも、消息の分からない娘を持った家族もたまらない。

メキシコのマキラドーラ(輸出保税加工工場)では、米国がすべての資産を所有し、非熟練で低賃金で雇える10代前半から20代前半のメキシコの娘たちを働かせている。
メキシコ国内には、3500の工場があり、国中から集まった少女たちが数十万人働いている。
娘殺しの事件のあったフアレス市一帯の工場数は350、日本のメーカーも電気や繊維、自動車部品でここを利用している。
かけ引きにへこたれない、粘り強い裏交渉を、ものともしない関係者が日本人にいるのかどうか心配だ。
未解決事件を闇に葬ってきたのは、米国の議員、メキシコの財界、警察、司法当局、メデイアだと言われている。


映画では、バスの運転手が、夜間、工場から帰宅途中で、バスの中に1人だけ残った娘を、砂漠地帯に連れ去り、砂漠や廃工場で仲間の男たち何人かで強姦し獣欲を満たし、嗜好で噛みつき、首を絞め、なぶり殺しにすると言う残虐非道な場面が何度も出てきた。
男たちは、強姦殺人を犯して共犯者になり、結束を強め、おぞましい連帯感を確認しあうのだ。
許しがたいことだ。


背景には、映画の舞台であるメキシコのフアレス市と米国テキサス州のエルパソ市を拠点として、メキシコマフィアがコロンビアから持ち込んだコカインを取り仕切っていることがある。
メキシコマフィアはメキシコの警察や税関などを、麻薬で儲けた金で手なずけ、米側の警察や税関も買収している。
彼らは、米国などの先進国と肩を並べるために麻薬資金を市場に投資し、財界と結びついている。
メデイアや検察、法定などを買収し、身内のすべての事件をもみ消す。
メキシコの男たちは、麻薬売買に手を出し、人心を崩壊させ、自国の貧しい娘たちを、なぶりものにして殺し、猟奇的に鬱憤をはらすほど人間として墜落してしまっている。
男たちは、完全に狂ってしまっている。
異常性欲を持った男たちは、マフィアなのか貧しい労働者たちなのか、そのどちらなのか分かっていない。
500人とも5000人とも言われている砂漠の砂に埋められたり、廃工場に捨てられたりしている被害者の娘たちは、増え続けている。
実際の未解決事件をもとにした物語は、この事件を報道したメキシコ系のダイアナ・ワシントンバルデス(エルパソ・タイムズ女性記者)をモデルにしている。


物語は、シカゴで新聞記者として働く女性ローレンが、メキシコと米国の国境の町フアレスで起こっている連続女性殺害事件の取材に出かけるところから始まっている。




見逃した映画も数々あるが、「ボーダータウン報道されない殺人者」は、どんなことがあっても見に行かなければならないような、胸騒ぎと戦慄を覚えていた。1日1回の最終日の上映でやっと見ることができた。


<マキラドーラ>とは詳しく言えば、メキシコの工場で作られて外国に輸出される製品は、その材料を外国からメキシコに輸入する場合、税金をかけないと言う制度のことで、その制度を取り入れている工場の呼び名でもある。


監督 グレゴリー・ナヴァ


::::続く:::::

テレビと映画の「ファン・ジニ」

偶然、テレビで放映されている「ファン・ジニ」第7話「決意」を見た。
キーセン(妓生)と言う16世紀朝鮮王朝時代の芸妓(女性)が、詩歌や書、歌舞や音楽や教養を身につけ、真の芸道を突き進む修行のすごさに興味を持った。
鶴の舞を踊るためにはまず、基本になる筋力と鶴の心を会得しなければならず、河原で横棒に結ばれた紐にぶら下がってぎりぎりまでの生易しくない訓練に耐える。
主人公のチニは(主人公の名前ジニは、語頭に来る音は濁音にしないそうでチニと言うそうだ)、自ら選んだキーセンの道を、恋人のウノと結ばれるためにやめる決心をする。
チニの芸道の師であるぺンムは、並々ならぬ辛苦と歓喜をなめてきた人で、何においても堂々とした貫禄を持っていて、けた外れのチニの才能を認めており、若い時の一時の恋でキーセンをやめないように説得する。
恋人の男ウノの出方を見るために静観している。
芸道の師ぺンムの落ち着いた態度や芸の磨き方の厳しい指導は、見応えがある。
この人見たさに、当分テレビ放映の「ファン・ジニ」を見ようと思っている。


同じ時期に、映画版「ファン・ジニ」も見に行ったが、芸道を磨くところはほとんど出てこなかった。
ストーリーの設定も、だいぶ違っていた。
チニに詩歌や歌舞や音楽や教養を教えたのは乳母であり、チニは父親が元キーセンの下女に手を出して生まれた娘だった。
兄弟のように育った下男がいたが、家を追い出され義賊になり、チニを恋する余り、チニの結婚予定の婚家先に、彼女の素性をばらして、結婚を破綻に追い込む。
チニは下男に後ろ盾を頼み、身を任せた後、キーセンに身を沈める。
品行方正だと自認し、女性には何の興味もないと取り済ましている文人の男たちの本音を暴いて辱める。
下男はこの有様を受け止めて耐えて見つめることができず、その場から遁走し、理想郷を作ろうとする。
キーセンのチニと下男の2人は複雑な恋仲を最後までつづける。
下男役の情けない顔つきはいただけなかったが、衣装や調度品、屋敷の美しさに目を奪われた。

チニ役の女優のソン・へギョの白熱した静かな演技は、凄味があってよかった。
テレビの司会業をしていた山口美江をギュッと痩せさせて、気骨のあるなめらかな美しさをプラスした感じだった。


「トンマッコルヘようこそ」の無垢な美少女役のカン・へジョン、 「デュエリスト」の女刑事役の美しいハ・ジウオン。
彼女たちのおどけ方は、どこか日本の天真爛漫な感覚の表し方と違っていて、跳ね方がすごく幼児的で、そうまで表情を崩さずともと笑えてしまうほどだ。
その点、普段はどうか知らないが、「冬のソナタ」の時のチエ・ジウとか、今回の映画のチニ役のソン・へギョの時は、はしゃぐ時も、喜びを表す時も、すみずみまで綺麗で、暴れすぎていない。

スイス映画 「マルタのやさしい刺繍」

表情豊かな3人の老齢の女性と、少し若い女性が1人、どこかへ行こうとしてわくわくしながら、バス停のベンチに座っていたり、大きな袋をみんなで抱えて急いで歩いているポスター写真を見て、何かしでかしている楽しさを感じたので早速見に行った映画だった。
チラシにも「遅咲きの乙女たち」と言う言葉が躍っている。

スイスの村で暮らしている3人の女性は全員80歳に設定されているが、その中の一人の実年齢は88歳で、初主演マルタ役の女優シュテファニー・グライザー。
現在は90歳。

夫に先立たれたあと、マルタは、男声合唱団の旗を繕ってほしいと頼まれる。
マルタは、今までは夫に止められていたけれど、パリに自分でデザインしたランジェリーのお店を開くのが夢だったことを思い出す。
結婚前は、ランジェリーを縫う仕事をしていたマルタは、友人たちの手を借りて、町の生地屋さんに行き、レースや下着用のやわらかな布を買ってくる。
今まで雑貨屋だった店を、手づくりのランジェリーショップにしてしまう。
マルタの息子は牧師で、ランジェリーショップをやめさせようとしするが、ほかの閉鎖的な村人たちの意見も似たり寄ったりだ。
マルタのランジェリーショップの下着を「いやらしい」と言って袋に詰めて全部捨て、その店で聖書研究会を開こうとした保守的な息子は、研究会に来る女性とよい仲になっていて、妻に隠れて教会の裏で抱き合っている。
おやおやである。
鶏と糞をお店に入れて妨害する男もいる。
仲間の女性たちは80歳にして車の免許を取ったり、パソコンを習ってインターネットで下着を売ろうと試みる。
これが大当たりで注文が殺到。
村中の手仕事の器用な老人たちも巻き込んで、村独特の刺繍を入れ、マルタのランジェリーショップは花開く。
周囲の反対や難題を乗り越えるたびに魅力的になってゆく笑顔が素晴らしい。
監督は女性で35歳のベティナ・オベルリ。
この映画には、国防問題は一切露出してきていない。

〜日本公開は2008年10月半ばから12月〜