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帯留めへの憧れ

帯留めは、着物を着る時、最後にしめる帯締めの真ん中に付けるものである。
心の余裕と気迫でその日の結界が体の中心あたりに気高く結ばれるのである。
着物を着ることのない私にとっては関わりのないことだと残念に思っていた。
ところが、帯留めの写真集の中で、ジュエリーカレッジの学校長の水野孝彦さんと言う方が「帯留めは現代の洋服を飾るブローチに匹敵する」と書いておられたのでものすごく嬉しかった。
首の下や左の心臓の上に、その日の必然的な気分で帯どめをブローチにして気軽につけることには思いが及ばなかった。
気分が落ち込んだ日には、金色の鳩のブローチや男の子がミュージカルで山高帽をかぶり、体の2倍もある左の片足を蹴り上げて楽しく踊っているブローチ、対決しなければならない時には恋月姫のカンバッジ(詩人の西野りーあさんからいただいた)と剣のブローチを組み合わせてつけているのを思い出した。


固定観念がいかに人を不自由にするのかよく分かった。
完全主義の親や親戚や教師に型にはめられ、逐一叱咤にさらされて生きてきた者にとっては、ある地点で彼らと離別しなければ成長できない。
アマチュアの音楽教室の中に本当に良い演奏ができる人がいても、発表会のコンサートや教室の合同コンサートで独奏をしてもらうことになると、習慣となっている親や親戚や教師や口うるさい友人の叱咤の声がどこからか聞こえて来て、場になじめないことも手伝って怖じ気づき、勇気が出てこない人が大勢いる。
そう言う人は、自分の演奏について、誰もが否定的な悪口を言うと思いこんでしまっている。
それほどの心の傷と闇を抱え込んでいてコンサートの時は必ず病気をするのだが、その反面、誰かに怒ってもらわないと発車と移動ができない状態にある。
自分を怒らない人を、頑として信用しないマゾ体質になってしまっている。

ついでに言ってしまうが、テンポも音程も傾き加減の我(われ)のまま(我儘)で、練習ができていないのに、他人にそんな未調整の明らかに調子はずれの、のたうつ演奏を聞かせても平気な人もいる。
そういう人たちが多ければ、大声でのおしゃべりは日常茶飯事であるし、説明している時に人の声を遮って無頓着な言葉のさしはさみをするので、声を嗄らすほどの大声でしゃべらなくてはならない。
聞く状態が整っていない合奏の練習ほどくたびれるものはない。


話がそれてしまった。
今日のブローチは(帯留は)木彫のしみじみと紅い蟹にしようか、とろりとしたサンゴの人魚姫にしょうか、真珠と琥珀の付いた、ト音記号が流れてきて3つ重なったようなアールデコの「春の調べ」がいいかな。
やっぱり銀杏の葉のような5つの帆が、風をはらんで海を渡っている象牙の帆船にすることにした。
全部写真集の中の帯留と遊んでるだけですけどね。

米映画「デイファイアンス」・ユダヤの3兄弟

ドイツ軍のホロコースト政策によるユダヤ人狩りの迫害は、1941年8月からベラルーシ(共和国・首都ミンスク)にまで及んだ。
ドイツ軍による連行と殺害から逃れるためにベラルーシのユダヤ人たちは、リピクザンスカの森の中に逃げ込んで森の中での3年間の生活を余儀なくされた。
4兄弟の長男トゥヴィアと2男のズシュ、3男のアザエル、(幼い弟・4男)は両親を殺害され、続々と森の中に集まってくるユダヤ人たちの老若男女の仲間を守リ抜こうとする。
生き残る為には、きれい事では済まされないことばかりで、味方の造反者の粛清(残り少ない食料を男たちが独り占めしようとする。長男トゥヴィアに何かと突っかかる男を、追い込まれた結果みんなの前で射殺する)、農民からの略奪、ドイツ兵とドイツ兵に協力する者たちの殺害、復讐などにも手を出してしまった。
長男トゥヴィアは、人間の尊厳を守り抜こうとし、食料のない時には白馬に手をかけ食料にする。
彼はみんなのために落ち着いた行動をとろうとするが、発作的に両親を密告した警察署長の家に行き、男3人を射殺する。
妻子を殺された2男ズシュは、戦闘的になり銃をとるが、兄と意見が分かれて殴り合いの結果、森のユダヤ人共同体を離れ、ロシアのパルチザンに入る(どちらもドイツを敵とする)
ゲットーからユダヤ人を助け出すこともあり、森で暮らすユダヤ人はしまいには1200人にも膨れ上がり、学校や病院、床屋、パン屋、靴屋、刑務所まであったそうだ。
そうなるまでが大変で、極寒の雪の中や、暴風雨の中で飢えに耐え寒さに震えたこともあり、ドイツ軍の低空飛行射撃で殺される者も出てきた。
3男アザエルは、長男のトゥヴィアが全員のことを考えて躊躇し決断することができない場面で、若々しい力でみんなの先頭に立ち、川を渡り切ると言う難事を成功させる。


ユダヤ人共同体の中に長男トゥヴィアを慕う大学生の美しい女性リルカが現れる。
彼女は音楽を学んでいたと語り、ドイツ兵に強姦されたユダヤ人の女性が森の中で出産するのを助ける。
妊娠禁止の命令をみんなに下していた長男トゥヴィアは、規則違反だと叫ぶが、赤ん坊はこの森の中での新しい祝福されたみんなの希望の光だとリルカは彼に聡明に語りかけ、彼女の人間の温かい魅力で納得させることができる。
彼女が演奏家であれば演奏を聞いて見たかった。
歌手であればどんなアリアを歌うかなんとなく想像はできる。
そうして欲しくないことをちゃんと体当たりで長男トゥヴィアに告げ、赤ん坊を救ったリルカは素晴らしい。
うやむやにして見なかったこと、なかったことにし、闇に葬り去ることができるような問題ではない。
どのようにしたらよいのか分からないとか、関わりたくないとか相手にきっちり説明しないのは、人生に対する奢りであり、相手をなおざりにした怠惰ないなおりだと思う。
ベラルーシ共和国は、東にロシア連邦が、西にはポーランド、南にはウクライナ、北にはリトアニア、ラトビアと隣接している。
撮影はリトアニアの森で行っている。
ベラルーシに行ってみたいが100万はかかりそうだ。
長男を演じたダニエルクレイグは「007」では好きになれなかったが、今回は弱いところも見せる魅力的な人間を演じていてとても好感がもてた。

監督・エドワード・ズウィック

日・米2つのアカデミー賞

1ファンの私が言うのもおこがましいが、落ち着かないので言ってしまおう。
おめでとう映画「おくりびと」のみなさま。
日本とアメリカアカデミー賞を見事2つとも受賞なされました。
「おくりびと」を2回観に行った昨年の9月以来、「今年一番の映画になるのではないか、体質を改善させられてしまった映画だ」とハッピーブログにも投稿公表していた。
自分の予想があたって大変うれしい。
滝田洋二監督は「映画は言葉、国境を超える」と言った。
滝田洋二監督の申される言葉とは?
詩人の皆さまひよっとして詩集の危機かも?
映画には日本語が分からない人にも通じるものがあり、役者たちは人物の内奥から溢れ、漏れ、飛び出してくる言葉をしゃべりながらその場面で生きている。
それが世界の人々に通じてしまう。



詩の危機に当確する詩とは、ぐさりとも来ない、さりとてニュートリノのように降り注いで貫通もしない、当たり障りのない、責任も何も感じないでよい上滑りの詩をさしていると言っておきたい。
こんなこと言うとまた嫌われて、いたるとところでいじわるされたり、見て見ぬふりされたり、無視されたり、脅されたりするのだろうな。
詩人たちに。
長をいただいた団体さん。
誰も見ても聞いてもいない1対1の時にも。
自覚を持ってやっているんでせうか?
自分(私)の書いている怖い詩の登場人物よりもよっぽど恐いわ。
話はそれるが、方言自体は好きな時もあるが、方言を使って、女性の嫉妬心をねちねちねちねち吐しゃ物のごとくばらまく幼稚で陰気な詩なんてほんとにがっかりして嫌になる。
甘えた鼻声で朗読された日には腐ります。



受賞したのが、何度か見て嫌になっっていた肌の合わないお笑いのたけしの映画でなくてよかった。
いつもたけしがしゃしゃり出てうんざりしていたから。

有名人ゲスト

テレビのある料理番組では、毎回違った有名人のゲストを家族で招いては、楽しく明るい雰囲気をお茶の間に提供している。
この家族は、テレビだけの架空の家族。
役者やお笑い芸人や子役たちが家族を演じている。
ある時、素朴で親しみやすい超有名料理人がゲストとして招かれていた。
この人の作る料理はユニークでバランスがとれて家庭的でお美味しそうだ。
テレビの画面では、超有名人の料理人の腕も主婦の腕と何ら変わりがないように見えるが、割烹のプロの料理人としてのアイデアや腕は年季が入っているだけではなく福々しいものがある。
家族は、料理人の作った料理を誉めたたえ「美味しい」の連発「生まれてきて良かった」とも言っている。
画面の湯気のようにほんわかとした番組だ。


一つだけなるほどな、けれどおや?そんなものかと思ったことがある。
超有名料理人が自分のお店に来る著名人や政治家や世界のスターの名前をそれとなくしゃべるのである。
これで料理人の格がいっそう上がる。
本当に当たり前のことのように、何のてらいも背伸びもなく話は進むが、言ってることの規模が、並みの世間とは全く違うことに気付くだろうか。
超有名料理人の話には、まだ売れていない人物が、自分をバックアップしてくれる有名人の名をとりたてて宣伝に使ってしゃべるのとはちがう落ち着きがある。
世の求め(テレビのプロデューサーなどに発見されて)に応じ、世に売リ出せた人の中には、なぜか師の名を伏せ、育ててくれた恩人の名をおくびにも出さない人がいる。
これに比べれば自分の店に現れる有名人たちのことを楽しげに、たいしたことでもないように話し、周りの者に感謝することを忘れない超有名料理人は、人情厚い大人物だとも思える。
一方この礼儀正しさの後ろに、一筋縄ではいかない客にたするランクづけがあるのを感じてしまうのはなぜだろう。

フランス映画「画家と庭師とカンパーニュ」

幼なじみの画家と庭師の2人の初老の男性が田舎(カンパーニュ)でしみじみと時を過ごす。
パリで商業画家もしている画家は求人広告を出し、父母が残した田舎のアトリエや畑を、同級生だった庭師に手伝ってもらうことにした。
どのような場面でも延々と続く2人の滋味ある穏やかな会話が心地よかった。
自分の体験をもとにした方法論的な人生の意義づけや教訓が出てこないので、退屈しなかった。
料理でたとえて言うと、隠し味の塩や、隠し包丁のことについて言いつのるのは、もうわかりきっていることなので少々うるさいものなのだ。
鋏を相手に渡すときは、刃先ではなく持つ方を相手に向けて渡すのよ的な詩でも同じ。


画家には妻と娘がいるが、彼は若いころから絵のモデルや女弟子と浮気を繰り返しているのでうまく行っていない。
庭師の作る菜園はみごとで美しい。
菜園自体が落ち着いたみずみずしい人生を思わせる。
庭師は、国営の鉄道で働いていたが、現在は菜園を上手に作り、年に一度2週間ニースに避暑に行くことを愛する妻との慣習としている。
彼は病に倒れる。
病名は観客には伏せられているが人生の終焉が近いことは分かる。
彼は、病に倒れる前はオペラが好きでラジオを聞いていたが、手術を受けてからは、クラシック(モーツアルトのクラリネット協奏曲イ長調K622)を聴きながら土に横たわり,寝ながら野菜の手入れをしている。
幸福そうだった。
この映画を見て自分の葬式の時には、一応坊さんのお経の時は止めるのだが、モーツアルトの曲を流してくれと言う人が増えることだろう。

画家と庭師は、2人で池で釣りをし、抱きかかえるほど大きなフナを吊りあげるがまた逃がしてやる。
この場面が宣伝に使われている。
庭師の死期の近いことをすべての人間が知った上で受け入れているとてもよいシーンだ。


画家は庭師が亡くなった後、庭師が履いていた長靴や鎌などの器具や身の回りの品々、妻を描いた明るくて単純な絵ばかりの個展を開く。
何だかとても穏やかで、すみずみまで神経が行き届いている、機智に富んだ会話が流れる映画だった。
フランスでは4か月のロングランで大ヒットした。
2007年・監督はジャン・ベッケル。

映画「感染列島」に見る檀れいの魅力

檀れいと言う名前の1人の女優さんの魅力だけで最後まで見せられてしまった映画「感染列島」。
客席に座った自分のそばに、呼吸器の病なのか、しゃっくりに似た口内音を3分おきに響かせる人がいようとも、ポテトチップスを10分かけて、袋が空になるまでバリバリ食べ続ける輩がいようとも、その場を離れて、スクリーンの檀れいの美しさを見るのをあきらめて席を立つ気にはなれなかった。(其の方々が御病気であればお気の毒と言うしかないが、映画を静かな環境で見たいと思う観点からすると、音の発信源のすぐそばに座った者は雑音に我慢を強いられることになる)。




檀れいは、水晶の山に咲いた白百合に似た架空の植物のような女性。
雪山から吹いてくる風。 銀笛金笛が入り混じる。
どうでもよいわけではないがストーリーは二の次だった。
檀れいが、ただただ気高く美しく出てくれさえすれば満足。
ひたすら麗しく、泣いたり眠ったり笑ったり会話したり、はかなく死んだりしてくれさえすればいいのだった。




海老を薬ずけで養殖し日本に輸入するある島で新型ヴィールスが発生。
そこで医者として働く日本人の男性が、日本に病気を持ちこむ。
日本の関東地方のある病院に患者かあふれるほど担ぎ込まれる。
檀れいは、感染症の専門家で医師たちを指導する立場の聡明な女性役。
檀れいに似た気持ちは、八千草薫とか小雪にも抱いている。

帯どめの魅力

騒々しいことこの上なもい日々を余儀なくされると、干からびてくるのが分かる。
なで切りの大根言葉をぼんぼんおかまいなしに投げつけられると、バットを持って球技のようにそのまま打ち返したくなるが、もしもそうすれば人間関係はほぼ終わりになってしまうので、ぎりぎりと歯ぎしりしながら、この仕事が自分にとって大事なものであれば我慢するしかない。
この場合逆転の発想はできにくい。
何でもかんでもありがたがって滅私奉公しなければならないなんて人間性への虐待だ。
悲惨な境遇をありがたがって自分を殺して一言も不平を言わない人は、かえって何をしでかすか分からないので信用できない。
そんな大げさな悲惨なことは、こちらが礼を尽くしていればないはずだと言う向きもおられるが、世間は広いのだ。
そう言う目にあわないで済まされる位置にその人はいるだけだ。
1分で済むことを30分も言いたい放題に言うのを聞くのは耐えられない。
言葉のげろを勝手に投げつけるのはやめて欲しい。
恥も外聞も礼儀もなーんにもなくなってしまい自己主張だけをするぶよぶよ。






彷徨いたどりついた本屋の写真集の前で足が止まり、どうしても立ち去れず、動けなくなってしまった。
小1時間眺めては、3回立ち去ろうとしたがまた戻ってきてしまった。
とうとう帯どめの写真本を2冊とも買ってしまった。
大きさにすれば3センチ〜6センチの帯どめ。
その昔私が子供のころ、女の人たちが正装と言うと、ほとんど着物を着て歩いていたころがあった。
勿論、普段着にも着物を着ていた人はいたがそう多くはなかった(必ず人が言い終わるか言い終わらないうちに、その人が考えた補う言葉をはさんでくる人がいるのでつけ足しましたが)
女人たちは、瑪瑙(めのう)や珊瑚の赤白、鼈甲(べっこう)や象牙、琥珀に螺鈿、陶や彫金やセルロイドや水晶をはじめオパールや真珠、翡翠などの宝石の帯どめをつけていた。
着物を着つけた最後の中心を帯どめで決めると言うことは、日常に息づく肉体を布で覆い、結界を張り、聖域を作ることであった。
何という豊かさだ。





蟹やとんぼや蝶や金魚やおたまじゃくしが1つ1つ生きているようにのびやかに作者の手の中から生まれている。
作者の清浄な静かなまなざしと様々な色の炎の情熱に出会った。
聖品の周りに立ちこめる空気感には成長ホルモンを感じる。
帯どめの写真を眺めるだけでひそやかに息づくすがすがしい風が吹いて来る。

土筆やソラマメや竹の子やわらびが実物の姿を借りて、決して腐ることのない聖品になって晴れやかに時を止めている。
そして、可愛く美しく夢のある聖品に、小さな声をたてて笑わせられる自分がいることに気ずく。
このような幸せそうな自分の笑い声を聞くのはひさしぶりだ。


<欲しいもの>
彫金の「風吹牡丹」は花びらが斜めに優雅に泳いでいる。いつも風に揺らいでいる。
「蛙とかたつむりの首引き帯どめ」(首にひもをかけて引っ張り合っている)これも彫金。
象牙の桜は、花びらが自由にやわらかな味を持ってしなをつくっている。
彫金の子すずめは踊り、象牙の子すずめは茶色を入れられてふっくらして声を上げて遊んでいる。一番欲しいのはこれ。
はんで押したような七宝焼きのお花畑風は嫌いだが、この本の七宝焼きの花々や玉虫はすっきりとして色も形も品よくスッとしている。
これらを見ていると私がつまらないと思うのは、本当にはんで押したような作品だと言うことがわかってきた。
木彫りの群鳥だが1羽1羽違った表情をして皆が影響し合って調和している。
焼けたあとが付いた炒り豆が3つくっつきあっているのは楽しい。
ご飯で言うとおこげをみんなが好きなように好きになる帯どめ。
彫金の流水の後ろにセルロイドの金魚がもったり浮かんでいる。
何という良い世界なのだ。これは。ここは。
これにアールーヌーボーのモダンな蝶の帯止めも入っている。
本物を手に入れて掌で温まるまでかわいがりたい。


電車の中でもずーっと見ている。

著作  伝えたい日本の美しいもの「貴道裕子の帯留」(1)と(2)

ジョージ秋山 「銭ゲバ」(2)

初めは主人公の蒲郡風太郎(がまごうり・ふうたろう)にとって銭(ゼニ)とは、あらゆる点で人の命を生かしてくれるものであった。
銭のために殺人を犯してしまうことがあると言うことを身を持って知ることとなるのは後からだ。
1970年代に一本1万円する薬を母親に注射すれば病気は治ると医者に言われたが、半年医者に銭が払えず、今日限り診られないと言われてしまっていた。
母が危篤の時に医者を呼びに行ったが、当然門前払いを喰らった。


中学時代には、不良仲間の親分の世話係のお調子ものの子分になり、食べかけのパンを半分もらったり、盗みを働いた分け前をもらっていた。
盗みの時は、不良仲間は見張りをするだけで、ほとんど蒲郡風太郎がやらされ、最後の運搬もすべて彼だった。
蒲郡風太郎は、どんなことがあっても怒らず、涙も見せず、ひたすら全員の子分になることに甘んじていた。
分け前のお金で母親に豆腐を買って帰っていた。
蒲郡風太郎は、いじめを受けたり、こちらがいじめたりすることも、盗みもやってはならないことぐらい百も承知だった。


彼をかばってくれたのは、医師でも教師でもなく、近所のやさしいお兄ちゃんだった。
近所のお兄ちゃんは、不良仲間と付き合ってはいけないと言うのだけれども、そんな風に言われてもお腹はいっぱいにならないし、豆腐も買えない。
一歩引いて注意するだけでは不十分なのである。
引き取って全部面倒を見る覚悟があるのか。
または逃げた父親についても法律的な対処の仕方があるのだから、社会的な制度の手続きの取り方を教えるとかの対処ができなかったのだろうか。




蒲郡風太郎は「これから毎晩一緒に寝るよ」と母親の布団にもぐりこんだが、翌日布団の中で母は死んでいた。
「母ちゃんはお金持ちだったら死ななかったズラ」「銭がないから死んだんズラ」と近所のお兄ちゃんに向かって言う。


蒲郡風太郎は、通りががりの車の中にあった大金を偶然目にして、盗んでしまう。
近所のお兄ちゃんに目撃され、「バカそんなことして、母ちゃんが悲しむぞ」「いくら欲しくても人のものを取ってはいけないのだよ」とわかりきったことを言われる。
しかし蒲郡風太郎の心にその声は響いても、心を納得させ動かすことはできない。
盗んだ銭が雨の中に舞い上がり、その紙幣を拾おうとした近所のお兄ちゃんは、後ろから蒲郡風太郎にシャベルで殴りつけられて殺され、土の中に埋められる。
蒲郡風太郎の目に初めて涙が浮かぶ。
近所のやさしいお兄ちゃんに向かって、蒲郡風太郎が世間に対して、我慢し抑制していた殺意が噴出してしまう。
わが子のすべてを慈しみ何があっても守り抜こうとする母親的な部分だけが彼を慰めていたが、今はどこにもそれは見つけ出せない。


ジョージ秋山の漫画「アシュラ」では母親がわが子を火にくべて喰おうとする。
ジョージ秋山、ああああ。


蒲郡風太郎は「銭があれば馬鹿にされないでいいズラ」「日本一銭を貯めるズラ」と言って上京する。
くどいようだが父親が女と逃げた後、母親が病気になった地点で、近所の者や教師などが生活保護とかを受けさせなかったのだろうか。
食事や勉強のために一時施設に行ってもらうとか、親戚の援助はなかったのかどうかは漫画に描かれていない。

≪続く≫