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最近の忘れられない映画「Beauty うつくしいもの」

詩誌の原稿の締切に追われて、映画「Beautyうつくしいもの」について書いたままの文を放置していた。
時が経ったので映画「Beautyうつくしいもの」を後に回し、今思っていることを初めに書くことにした。
飴細工の細い糸が繋がっただろうか。




タクシーにもバスにも電車にも飛行機にも何とか乗れる平均的な生活を営むことができる生活。
何かをあきらめた結果、不平不満はあるものの基本的には、何不自由のない暮らしができている。
大勢の平成の世に生き長らえることができている人々は、否が応でも横目で自殺者の数を見なければならない。
もしくは具体的な何人かの知人たちの姿を思い起こさなければならない。

人生でそうなりたいのになれなかったのは誰のせいでもないだろう。
その中で、自分にとって美しいものを捜すとしたら、平均的な人生の体験から平均的な人生訓を掬いあげてくるだけでは、共感を呼ぶかもしれないけれど感動は呼ばない。


コミックの近藤ようこの「月影の御母・つきかげのみはは」の中の戦国時代のお寺に出てくる、万人の母である気味の悪い椿の妖怪の尼君たちは、そっくりそのまま相似形で椿の花の数ほどいる。
湿り気のある教訓は相似形で、わらわらわらわらと集まってくる椿の妖怪に似ている。


少年は産みの母を探して旅をしているが、門前の市で寺の老安主様に出会い寺に連れて行かれる。
そこで産みの母だと名乗る女性に出会う。
ここに住んでいる相似形の母たちは尼で、見かけはとても親切、うるさいくらいに優しく世話を焼きたがる。
むやみに食べ物を食べさせようとする裏には、太らせた少年を椿の根元に埋めて、妖怪の滋養にするという魂胆があるのだ。
少年は、本当の母に出会えたと思ったのだが、母たちの言いなりにならなければ 「わたしたちの滋養におなり」と言って、暴力的に椿の木の根元に埋められそうになる。
寺の老安守様は門前の市を守って来たが、いつしか度重なる戦で寺も廃寺になっている。
尼たちは、初めのころは戦に興じる人の愚かさを憎んでいたが、いつしか人を守る代わりに、椿の妖怪になり、殺した人の屍を自らの滋養にして来た。
下手な教訓を守っている人間に、貧困と言う艱難辛苦が降りかかると、逆切れして妖怪になってしまうのだ。
自分の信念が、正反対に転換してしまう場所で、なぜそうなるのかを見極め、踏み堪えなければ、何を言ったって同じ事かもしれない。
教訓を飾っておける場所で、飾っていても仕方ない。






映画「Beauty  うつくしいもの」 監督・後藤俊夫

昭和の時代。
長野県の伊那谷の風景が360度深々と圧倒的に広がる。
庭園風に人工的に刈り込まれていない山や空や川の自然。
空気や木の葉が粒子の蜂になって静かに唸りながら揺れている。
胸奥深く入り込んで散らばる音楽が、増幅されて懐かしさに巻き込まれてしまう。
いつものような情感の暴風雨が起こりかけたので、もう少しで耐えられなくなるところだった。
耳を聞こえないようにし、他のことを考えようと自分に言い聞かせると、だんだんおさまってきた。
亡くなった人々の感情が、時を越えて情感の船に乗ってやって来るのだ。
しばらく持ちこたえさせて映画館を出ないで済んだ。
映画を見ると、自分の奥深く潜んでいる傷口や喜びの勘どころもわかってくるのでとてもよい。



村の祭礼の時にだけ公演される村歌舞伎の歌舞伎役者、男性2人と女性1人の3人の物語。
男性2人は満州に戦争に行きシべリアに抑留される。
1人は帰還して村の歌舞伎役者に戻る。
彼は年をとり、村歌舞伎の役者としての最後の引退公演を行う。
足がよろけ、帯が解け、相手役の親友の形見の長すぎる袴が脱げ、転びながら、何度も持ち直し懸命に踊る姿は、圧巻で枯れていて自由で美しい。
観客みんなの涙ながらのやんやの喝采を浴びる。


もう一人の男性は戦地で、伊那谷から満州の開拓団に行っていた人々に会い、子供だけは助けてくれと言われたが、どうすることもできず、ロシア兵が迫る中で、辱めを受けないために、仲間の家族に手りゅう弾を投げつけ、無理やりに自決させる。
死ぬ寸前にこちらを向いた母親の絶望的な目が、映画の中で何度も繰り返される。
彼は、日本に帰還することができても、故郷に帰ることができず、自分が投げた手りゅう弾に飛ばされ失明している。
名前を変えて他の村の歌舞伎役者になって細々と暮らしている。
しかしその名人芸が新聞に載ってしまい、とうとう伊那谷に暮らす親友に見つけ出されてしまう。
初めは人違いだとしらを切るが、後で心もほぐれて来て、伊那谷に戻り、歌舞伎の共演をした後に亡くなる。、
歌舞伎のせりふと映画のストーリーのせりふが重ねられ、2重にせりふが深まるのは良かった。

封切り映画・忘れられない場面

見た先から忘れて行く最近の映画。
今日の空模様に対する自分の印象から始めていたら、アリスのように退屈で眠ってしまいそうだから、驚きを覚えた部分から振り返ってみよう。
今回は物語の筋に詳しくは触れない。




映画「オーストラリア」

アボリジニと白人の混血の少年が、断崖絶壁で1500頭の牛の落下を、アボリジニの魔法の歌で、ぐぐぐっと押しとどめる。
牛たちは少年の歌を聞き(超音波が出ている風でもない歌う声)向きを変えて助かる。
息を飲む力のこもった映像がものすごく印象的。
この少年は天地と交流することができ、祖父は聖なる魔力を持ったアボリジニで岩山に住んでいる。
いつも何かが歌っているようなサウンドがあちこで不規則に鳴っている。


イギリス貴族の奥様が、なかなか帰国しない夫に業を煮やしてオーストラリアに赴く。
夫は何者かに殺されており、カウボーイのアボリジニと白人の混血の野生的な男性と牛を港まで届ける旅を続けるうちに愛情が芽生える。


2つ目の驚きは、カウボーイが自分の裸身を泡立てた石鹸で洗い、バケツで水をかけるところ。
しぶきの中の筋骨たくましい裸身が非常に美しい。
コマーシャルでひげをそった頬や顎にバシッバシッと化粧水を叩きつける場面よりも100倍美しい。


イギリス貴族の奥様が、母を亡くした少年を慰めるために歌った懐かしい曲「虹の彼方に」が少年のお気に入りになり、古代の歌との共鳴、共振が起こる。


貴族の奥様役のニコール・キッドマンが日に焼けて疲労し、難問解決に必死になると、お笑いの青木さやかになるのを発見。
奥様は気位が高いばかりではなく、決断力と行動力はケタ外れである。
「風と共に去りぬ」のような強い女性を狙った感もある。


頃は第2次世界大戦中、日本軍はあたりかまわず町(ダーウィン)を爆撃し爆弾を落とす悪役として扱われている。
アボリジニは白人との同化政策で、殺されたり土地を奪われたりしていたが、今はもうそのようなことはない。
1500頭の牛は食肉用でイギリスへ船で運ばれた。
イギリス軍のために、また祖国のために頑張った奥様はずっとお金持ち。

ダウト「あるカトリック学校で」米映画

1964年のニューヨーク。
カトリック学校に派遣されて勤務する神父のことで問題にされることがあるとしたら、汚職や男色、本山から問題視されたあげく見放されたエクソシスト神父たちのことだろう。
時々そう言う神父がカトリック学校に回されてくるらしい。
しかし今回は、神父自身の問題ではない。
ダウトと言うのは疑惑のこと。


メリル・ストリープがカトリック学校の厳格な校長役を演じる。
いつも黒づくめの服を身につけ赤ちゃん帽そっくりな黒の帽子をかぶっている。
彼女は戒律を重視し、いつも人を見張っていて、少しでも戒律を破る人がいると、目ざとく見つけて地位を利用して責め立てる。
これほどひどくはなかったが、お地蔵さんの絵を描く金持ちの女性や小物に刺繍をする文化人の女性や人形作家、教師たちの中に、いたいたこんなどうしょうもない物騒な女人たちが。
黒い服装の老女には、かなり辟易させられ、重要な役ではあるが、出てくるたびにうっとうしかった。
画面や気分が、黒いものばかりで覆われることが多かったので、眠くなって来て老女の校長が出現するとだるくなった。



老女の校長から目を付けられてしまったのは、フリン神父。
(不倫ではなく本当にフリンと言う名前)
彼は人望厚く、温かで考え方が進歩的である。
フリン神父が、黒人の男子生徒を部屋に呼び、男子学生が部屋から出てきた時には、アルコールの匂いをさせていた。
校長に何かと校内のことを言い付けるのは、世間知らずの純真無垢なシスター。
彼女の配慮のない告げ口で、いつもひと悶着が起こるのだ。
黒人少年は性同一性障害で、転校してきた少年で、フリン神父はそう言うことに対するいじめから彼を守ろうとしたのだ。
黒人の少年の母親は、少年の将来まで見通し、校内で少年を見守ってくれる人であれば誰にでも感謝する。
少年と神父の不適切な関係などがあったとしても、ものの数ではないし、卒業まであと何カ月もないので黙って見逃してくれと言う。
問題にして騒ぎたてているのは校長とシスターだけなので迷惑しているのだと。


フリン神父は、少年たちを見守り、性同一性障害も世間に認められてもいいと言う考えの持主である。
校長は目の前にそう言う少年が現にいて、傷ついて行き場をなくしていても存在を許さない。
いったいそう言う校長の宗教ってなんなのですかね。
少年は学校を辞めさせられ、フリン神父は学校を出てゆくまでは覚えている。
後は気持ちよく寝ていた。
校長のようなあんなおばあさんにはなりたくないなと思った。
2,3日おばあさんを見ると人生が嫌になった。

映画「チェンジリング」

ロスアンジェルス市、1928年、母子家庭の息子のウオルター少年が誘拐された実話をもとにした映画。
5ヶ月後息子が見つかったと告げられて、無理りやりに警察に押しつけられた少年は別人だった。
暴力や汚職で腐敗していた警察の捜査では、本当の息子ウオルターは2度と戻ってこなかった。
偽ものの息子を演じている少年は、大人にそそのかされて嘘をつくことを覚えてしまっていた。
かわいいが空恐ろしい少年である。
この少年は息子ではないと訴え続けた母親は、警察当局から無理やりに精神病院に入れられてひどい拷問を受ける。


そのころ少年ばかりを誘拐して農場で殺していた変質者の殺人鬼の男(実在した人物)がいた。
ウオルター少年もこの殺人鬼に誘拐されていたのだが、農場を逃げ出していた。
その後どこに行ったのか消息は分からない。
殺人鬼に仲間にさせられた少年が警察につかまり、20人ほどの少年を殺人鬼と一緒に殺したことを自白した。
少年は、「殺さないとお前を殺す」と殺人鬼に言われたと泣きながら訴えた。
少年は、自分が死んだ後に「地獄に落ちたくない」と苦悩する。
埋められた少年たちの骨を掘り返して見せる。

キリスト教(カトリック)の教えでは、罪を司祭に告白し神に許されると言う告解の秘跡と言うのがある。
許しを乞い、神に許されないと天国には行けないのだ。
驚いたことに、殺人鬼も天国に行けないことを怖れ、刑務所に司祭を呼んで告解を行ってもらい、20人もの少年を殺して埋めた大罪はもう神に許されたと言ってはばからない。
ウオルター少年の生存の有無をどうしても、殺人鬼から聞きたい母は、殺人鬼に真実を述べるように迫る。
殺人鬼は「ウオルター少年は天使のようだった」と裁判所で漏らしたっきり、死刑が実行される2年もの間沈黙している。
殺人鬼は気まぐれのように、ウオルター少年の母親に会いたいと言ってくるが、会いにゆくと、話をはぐらかし、自分の罪から目を伏せ、ふざけた口をきく。
反省した様子もなく、自分が天国に行きたいばっかりに、罪を司祭に告白して許してもらえたと思う虫のよい殺人鬼。
ウオルター少年の母親は殺人鬼にむかって「地獄に堕ちろ」と繰り返し叫び続ける。
まだ息子を返してもらっていない母親はここにいて苦しんでいて、殺人鬼の罪が許されたなどとは決して思っていないのだ。

殺人鬼が絞首台に登る時に「絞首刑の13階段を1段踏まずに上った」(やり直させろとでも言うのか)とか「せかすな、せかすなよー」などと周囲をおちょくったように喋りまくる。
ウオルター少年の母は気丈に殺人鬼の絞首刑を見届ける。


2008年 アメリカ
監督 クリント・イーストウッド
母親役 アンジェリーナ・ジョリー

もしも「おくりびと」の主人公が・・・

映画「おくりびと」の主人公が、納棺師になる前の職業は、オーケストラのチェロ奏者。
彼の所属するオーケストラが解散の憂き目にあい、彼は郷里に戻ってやむなく納棺師の職に就く。
彼は納棺師の仕事の合間に、雪山をバックにチェロを演奏し、その高貴な音色は野山に広がり薫り高く漂いつづける。
彼は聡明でハンサムで慎み深く、悲しみも苦しみも抱え込んでいる繊細な音楽家である。
オーケストラにいた時のコンサートにのぞむ態度も、真剣そのもので、曲に対する畏敬の念に満ち満ちていた。、
納棺師の仕事を、亡くなった人をうやまいつつ、折り目正しく、チェロ奏者の柔軟な指使いで進めていて、その立ち居振る舞いは美しく、流れるようである。


しかし、もしも主人公が、かっぽれや指笛の名人だったりしたらどうだろう(さべつではありません)。
日本独特の間(ま)を大事にするテンポが、外国の人々に、ルーズテンポに聞こえたり、不安定な音程や擦れ音が、雑音に聞こえてしまったりはしないだろうか?
風流な虫の音を、音楽とは思っていない国の人々を説得できるかどうか?

そして主人公が若ハゲで丸眼鏡をかけ、酒好きでエッチで、庶民的でべらべら喋りまくる、ドリフターズのカトチャン(加藤茶)の様な愉快な男だったりしたら。
どういうことになっていたか…考えると愉快です。

浄化作用

折り曲げた指の中に隠れてしまうほどの帯留。
ギュッと中身の濃い遊び心と、洗練された美意識の詰まった装飾品。
最初に眼に涼しく飛び込んできたのは、花が寄り添った翡翠の帯留。
翡翠が持つ冷静で華やかな光沢は、何よりの浄化薬である。


2番目には七宝の花花(花びら8つ)の帯留。
七宝と言えば透明感のない厚みのあるものだと思ってきたが、銀細工の台に、薄ガラスの翅と見まごうばかりの気品のある七宝の花花があった。
作者は花としっかり見つめあったのだろう。
緑、青、薄赤、黄色の架空の花花が、本当におしとやかな8人の麗人のように、こちらを向いている。



仕事がら、空間の静けさを破った(汚した)10人〜20人の演奏をほとんど毎日のように聞いている。
焦燥感から逃れるために、帯留めのように自分の周りに静寂をまとい、地にめり込んでゆくような重さと、胞子のように自由気ままに漂っているような軽さを持ったものが必要になり、強く魅了されてしまうのは必然的なことである。


アマチュアの演奏は、自分の楽しみや時間つぶしでやっているので、それぞれがバッタのように、いりごまのように飛びたいように跳ね、空間が騒音然としても仕方がないのである。
それを可愛くてけなげであると受け取るか、寒天状に固まった濁り水が、空間に漂ってドサリ、ドサリと落ちて来ていると受け取るかは、意識の持ち方であるが、バリアーを張っていないと、それを聞いた後2日〜3日間は風邪の時のように元気が出ない。浄化作用が必要になってくる。


その日に見たい色と形が思い浮かぶようになってきた。
帯どめの写真集から、迷いつつも一つ二つを選べるようになってきた。
その日食べたい料理や、聞きたい曲、見たい絵、見たい映画、着たい洋服、読みたい本が誰にでもあるだろう。
もしなければその人を生かしてくれる何か大事なものを失なっているか、失いつつあると思った方がよい。


憧れてきた阿修羅像と8部衆(乾漆像)が九州国立博物館に今年来ることになった。
すぐそばに住んでいるのでとても嬉しい。

マイブーム・帯留め・ブローチ 思いの根を知る

他のものとも共通するが、帯留めは人が思いを寄せたものが、形になって現れたものだ。
余計なものを剥ぎ落とし、なくてはならない装飾をほどこした帯留めができるにあたっては、作り手と帯どめを付ける者の意志の疎通が必要な場合があった。


普段、百足がおなかのあたりを這っていたら大変な惨事を招くことになる。
それが帯どめの百足であっても、趣味を疑われただろう。
ところが帯留めには百足があるのである。
一体どんな時に、どんな女性が身につけたかと言うと、商家のおかみさんが大晦日のみにつけたものである。
お金は足が速い。
百足も足が速く、畳の上を歩く時には、ざわざわと言う音をたててすぐにどこかへいなくなる。
本物の百足の足は数えたことがないが、帯留めの百足の足を数えると、片方が22本あった。
昔はお金のことを「おあしと」言っていた。
つけにしていたひとの代金(おあし)が入ってくるようにとの願いを込めて、商家のおかみさんが百足の帯どめをつけていた。
百足の足の数くらい沢山のつけがあったのだろう。


蝙蝠や蛇、ミミズク、ネズミなど1匹ものの帯留はあるが流石にナメクジはない。
リアルな蝙蝠は蝠が福と同じ音読みなので、福の象徴となっている。
蛇もミミズク(安産・子育て)も縁起ものとして珍重されている。
私としては今のところつけて見ようとは思わないが。


今日は3月3日のお雛様なのでお雛様の帯留めもいいが、お雛様のついた五節句のものがいいだろう。とっても楽しい。
旧暦の1月7日の節句の春駒。
3月3日の節句のお雛様。
5月5日の端午の節句の矢と的。
七夕の節句の笹。
9月9日の長寿を祝う重陽の節句の菊花。
これらのものがいとおしげに全部ついている帯留めには華やぐ。


〜日本のおしゃれ「帯留め」池田重子(現在85歳)コレクションより〜

マイブーム・今日の帯留ブローチを楽しむ

ああ今日はもう春の陽気の中で一日あそぼう。
アンティック帯留めのブローチに関心を持つようになって、季節感が戻ってきた。
季節がら、彫金の土筆や竹の子、蕨を選んでもよいが、もっとわくわくしたいので、今までつけたことのないものがいいと思い、昆虫の「ふんころがし・スカラベ」にした。
まるい台輪の中心に、赤い珊瑚の珠があるがこれが糞(ふん)に当てはまる。
彫金の3匹のふんころがしが珠に頭をつけて並び、その間々には3枚の葉っぱが差し込まれている。
葡萄の葉に似ているがよくわからない(説明されていない)
生きているふんころがしが、自然の成り行きで、こんな風に整列するわけがない。
デザインは伝統的な図柄に根ざしたものか、またはあらゆるものを踏まえて、作者自身がアイデアを糞(ふん)のように転がしているうちに転がり出てきた形なのだろうか?
これは作者のきっちりした姿勢からもたらされたアイデアであると思いたい。


私の場合、たいてい首を守るトックリえりのセーターに付けることになるが、セーターの色は黒が多く、薄いピンク、濃いピンク、さまざまな紫、ブルーに近い緑、トルコブルー、などである。
昨日から、ふんころがしのブローチを付けるであろうことをどこかで感知していたのか、お手軽理髪店で前髪をエジプト風に切ってもらったのだ。
それも梳かずに前髪の量を切り足して増やしてもらってまで。
いわゆる沖縄体形の一つと言われている安定型のこのわたくしが。笑ってくだされ。え〜意味が分からないって、まいいでしょう。


「春宵」
乳白色の地にピンクと薄茶に近い黄色の横縞がある縞瑪瑙の台。
その上に、彫りものの半小舟(後で接着したのだろうか?)が浮かび、桜の花びらが1枚時間をスローモーにして舞い落ちている帯留め。
これも今日付けたい。


「無題」
細長い銀の台座の中心に、1番大きい夢見る長方形のオパールがはめ込まれている。うっとり。
それだけではない左右対称の銀の亀甲型の三角形の中にもさらに、6個ずつオパールがはめ込まれている。
下が3個、その上が2個、頂点に1個と言う具合だ。
1つの帯留に合計13個ものオパールがついている。
オパールは強い光を反射して自己主張をしない。
内側から溢れ出る触れるか触れないかのふわふわした引力があり、表面張力を持っているかのような、ちらちらした明かりを点滅させる。
古代の気品あるミラーボール。
夜のお出かけにはこれをつけることにする。




写真集で垣間見てしまった根付(男性の装身具・手の中に入る小さな彫刻。留め金に使用)や驚きの半裏(半纏や着物の裏地)にも心ひかれて嬉しい悲鳴。

「だって時間がない、だって疲れが・・・」っていつも文句を言った揚句に爆睡。
やりたいことまで薄まってしまうような日常。
嫌がってやっていることをやめて、疲れてしまってもういやだと感じることを整理する時期にきているのかも知れない。
とは言うものの問題は資金。どうにかなりたい。

骨董の帯どめ

骨に継ぎ目の入った髑髏や、耳まで裂けた口の中の舌が上に巻きあがった般若の帯留めは、一体どんな時につけたのだろうか?
勿論身に付けるのは女性で、魔除けではないかと察してはいるが、占い師や毒婦や妖術使い的なイメージが湧く。
私がもしそのようなものを身に付けるとしたら、まがまがしいものの力を取り込みたい時に、見えない場所か、見えにくい場所に付けるだろう。


彫金の蝙蝠は、吸血鬼の手下のように悪辣ではなく、日本的な萎れ方をした蝙蝠でなんとなく笑える。
飾り雲を従えた赤漆の蝙蝠は、おどろおどろしい羽が3匹分もあって怖いが華麗。
異世界のお友達として一人いてもいいような感じだ。
現代だとゴシック系の黒ずくめの女性が刺青にしたり、またTシャツの図柄として、蝙蝠や蛇や龍なども電車内で見かけることがある。
売っているので面白がって着ているだけかもしれないが、見せられる方はぎょっとする。


江戸の終わりごろから(1802年)、明治、大正、昭和の初期に流行った写真集の中の骨董の帯留めは芸術作品である。
街に出かけて帯留めを探してみたが、カラカラと干からびた音のするような下品なおもちゃしか見つけられなかった。


帯留めには、祇園の舞妓さんがつけた「ぽっちり」と言う、華美ではないけれど贅を尽くしたものがある。
色染め象牙の金魚に、さらに彫金の鯉と植物が絡み、真珠、紅縞瑪瑙、鼈甲(これらを留めた彫金の金具模様の流れがやわらかに静まっている)がひそかに華やいでいるものがあった。欲しいな。
もう一つの「ぽっちり」は、オパールやピンク珊瑚や翡翠、真珠、鼈甲や紫水晶をつなぎ留めたもので、沢山の廊下や階段のある迷宮のような雰囲気が漂っている。これも欲しい。


今日の帯留ブローチは、季節からすると木彫のお雛様にしてもよい。
彩色が剥げたかすれ具合がとても美しい。
3月1日ハッピーブログをクリックすると鶯の声が聞こえて来たので、驚いて聞き耳を立てたが、鶯の帯留めもいいな。
もう一つはアール・デコで、ギターを弾く時のピックが三方に膨らんだような朱色の台に、白い中球3つ、黒い小玉2つ、真珠が1個ついて、黒玉から伸びた白線が白玉に1回くねってつながっている。
どちらを上にしてもよく、6通りの付け方があるが斜めにすると数えれられないくらいの付け方がある。
90年ほど前の4隅が丸い長方形の、薄い緑硝子の蛇(腹の模様。ルネ・ラリック作)は神秘的だ。






写真集(1・2)
伝えたい日本の美しいもの「おびどめ」 著者 貴道裕子