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映画「ラスト・ブラッド」の山の隠れ家

森の中の洋館もいいが、山奥の誰の目にも止まらないそのまた深山の、木造りの家々は、木の静けさを漂わせ郷愁を誘う。
この素晴らしい1本の木のような構えを持つ家には、吸血鬼抜きで、野生の獣や、鳥と一緒に半年ほど生活してみたい。


映画では、ただの静寂に包まれた家ではなく、ラスト・ブラッド(最後のヴァンパイア)の16歳の少女サヤが、殺された父(人間)の家臣と暮らしている家である。
舞台は日本なのだが、もう一人のアメリカ人の少女アリスが出てくる米軍の基地や中華街に似た繁華街も出て来て、フランス人監督のクリス・ナオンの異国情緒が形をなしたようなものだった。
中国映画「ラヴァーズ」の竹林の中の死闘の美が、この監督の中で生かされている気がした。



16歳の少女役は、韓国のチョン・ジヒョン、日本のセーラー服姿で三つ編みのおさげ、今までに見せたことのない猛スピードのハードアクションでオ二ゲン(ヴァンパイア種族)軍団を次々に斬り捨ててゆく。
ちょっとした息抜きのつもりで見に行った映画だったのだが、オ二ゲンと人間の間に生まれた少女サヤが斬り殺すオ二ゲンの肉片や血糊が飛び散る場面には気分が悪くなった。
こう言うのが監督の美意識なのでしょうね。
予告編で大体の傾向はつかめても、映画って見てみないと分からないものです。


父は人間で、母はオ二ゲンであるが、父母には当然恋の接点があったからこそサヤが生まれたわけである。
サヤの両親の恋は出てこなかったが、人間と魔物の恋の進展にはいささか興味を持っている私である。
母役には超美人の小雪がなっていたが、オニゲンになって空中に浮かんだ時には、凄みと切れのある美しさを出すために、妖怪メイクをして欲しかった。
好きな女優さんならどんな役であろうとかまわないと言う気持ちがあって言うことなので、小雪さん気にしないで下さい。
サヤに殺されながらサヤ向かって小雪さんが言った「私におなり」と言う台詞を聞くことができて、映画を見に行ったかいがありました。
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夢泥棒

知らず知らずのうちに、失敗を怖れるあまりに冒険心を失くし、陰気に若い人たちを制しては、説教するようになった腰の重い人物を夢泥棒と言うのだそうだ。
あれするな、これするな、あれが悪い、これが悪い、きっとこうなるからと始める前から、できない理由をわんさか挙げてじっとしているだけでは、人生の面白みも、感動も何もやってこないのだ。
顔色がぼやけて薄くなり、会って話しても、今まで何度も聞いた、解決の仕方は1つではなく何通りもあった昔の愚痴か、自分が美味しい患者になっていることにも気が付かない病気の話ばかりする中高年。


欲しがりません勝つまではと言っていた教師や両親や隣近所のおじさんおばさん、坊主や産婆さんまで、急に正反対のことを言い始め、アメリカさんからいただいた金科玉条をありがたがるようになって現在に至っている。
教師や親から叱咤激励されて今度は幼いころから受験戦争に追いやられ、暗記力で判断されてふるい落とされ、緩慢に苦しみながら、本当に気の弱いデリケートな気立てのよい者は、自殺してこの世に残っていない。
あっちの葡萄は酸っぱいからとあきらめる。
自分だけあきらめるのでは悔しいからか、考えるのもしんどいからか、すぐに止めておけと言うネガジ(ネガテイーブな爺さん)やネガバ(ネガティーブなばあさん)がいたら近づかないように。
4人の若者たちから教えてもらいました。ありがとう。


4月~5月に封切られた映画はほとんど見たが、朝鮮戦争から帰って来てブランド会社入社し、現在は一人暮らしのお爺さんの映画「グラン・トリノ」はよかった。
グラン・トリノとは高級車の名前。
ずけずけ本当のことを言い、手のつけようもないアフリカ系のアメリカ人と白人の肌の違いをはっきり容赦なく言い、隣家のアジアの少数民族の移民の少年や少女をはじめ沢山のアジアの人々と交流を深める。
兵士だった故に敵を殺さなければならなかったことがあったが、心の奥にはどうしょうもない何かが渦巻いていて、少年や少女を守って死ぬわけだが、この爺さんは頑固で素直でとてもよかった。
監督と爺さん役はクリント・イーストウッド。
映画「天使と悪魔」はあーあやっぱりぱりぱりバリバリ(劇場で口を突いて出てきたおどろきの表現です)中心にいる一番信用される人物が犯人。
手を変え品を変え全人類を守って見せた、尊敬を集める人物に対しては、誰も疑いを持たない。
博多では、ものすごくと言う意味でバリを使う。この河豚さしバリ旨いとか。


昨年冬?「阿修羅像」のことを作者の仏師の万福将軍(百済人)やモデルのことも考えに入れながらブログに書いたが、すぐに今年の夏に、近くにある国立博物館で阿修羅展があることがわかったのでわくわくしている。
直接写実的な造形に使ったモデルはいなかったと言う結論に至った。
ご自分のブログ日記に私のユーザー名入りでブログ文を取り入れて下さり、写真までつけてくれている方がいるのを偶然に知った。
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ここにも佐和音ちゃんが

ベランダに、昨年のツタンカーメンのエンドウ豆を干し、取り込むのをすっかり忘れていたら、朝早くから「じゅくじゅくじゅく」と1羽のすずめの佐和音(さわね)ちゃんの鳴き声がした。
まるっこいふわふわの体で、豆をほうばっているような顔をしている。
本当にほうばっているのかな?
今年もやってきましたね。好きなようについばんでもらおう。



今朝からJRの普通電車が1時間近くも遅れ、やっと乗れて特急の止まる二日市駅にたどりついた。
普通電車にこのまま乗って行けばいいのか、ここで特急電車を待っていた方がいいのか、接続電車を説明するアナウンスもないので、とにかく降りた。
すると今乗っていた電車のドアが閉まり電車は、行ってしまった。
特急電車は来そうにないので、次に来た普通電車に乗って見た。
すると特急電車の通過待ちが各駅で2回もあった。
2つの駅で、眼の前を、私が乗るはずだった特急電車が通りすぎて行った。
ああ今日は何という日だと、口の中の飴をがりんと噛んだ。
仕事先には、1回目の通過待ちをする駅で、公衆電話から連絡した。
携帯電話を持っていないので、乗客に事情を話し100円を受け取ってもらい、借りようとしたが「知りませーん」「わかりませーえん」と想像力が衰退したのか、初めからないのか、あほうのようにバカ息子やバカ娘に言われ、あと何人かの大人からは無視された。
困った時はお互い様と言う精神はどこにもみいだせず、冷淡な個人主義を目のあたりにした。
子供のうちから受験と言う戦争に追い立てられ、抜け落ちた者は負け組とされた若者と、根に立身出世意識を持った大人が、電車内で黙って携帯をいじっていた。
「いったい日本国の人情はどうなっとるんじゃい」と腹が立ったが、あきらめた。
「何か事が起こった時に、この人たちのために自分の命を投げ出すことはできない」などと考えた。
マザーテレサ以外の人が、この国で他人のために自分の命を投げ出すことがあっても、今はマゾの正義感の陶酔家にしか感じられないだろう。


佐賀の鳥栖(とす)と言う駅に着いて、長崎行きの特急電車を待っていた。
仕事先の佐賀に到着しても昼食ができないことがわかっていたので、お弁当を買って5月の風の中、ベンチに座って食べていた。
すずめの佐和音ちゃんたちが、7羽来て私の周りを取り囲み、確かにお弁当を欲しそうにしている。
5粒~6粒のごはんを何度も投げると、うれしそうについばんだ。
疑いもなく、うれしそうに食べてくれると言うことは、涙が出るくらいものすごく嬉しいものだ。
最近こんな喜びを感じたことがあっただろうか。


仕事先には講座開始時間の5分前に到着することができた。
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あれもこれも人生劇場

季節の変わり目は、気分が重く沈み込んでいた。
バランスを取るためか、初めは時々さざ波が起こり、そのあとから波紋が広がって大波小波の笑いがやってきた。
何でもないことを種にして、ダジャレて笑って過ごさなければ、元気が湧いてこなかった。


イオン化された液体サプリメントを、生まれて初めて口にして美味しいのでずっと1日3回嘗め続け、体調はすこぶる良く、風邪は1日で治り宿便がとれて、2キロ痩せた。
電話でこのような話を主婦の友人たちにすると、さっと逃げるようなそぶりを見せられ、ご主人の癖や嗜好の話を持ち出され、彼女はその後ろにさっさと隠れ、友人のはずだった彼女たちの顔と声が見えなくなった。まるでご主人と話しているようだった。
だーっれもサプリメントを無理に勧めていないのに、サプリメントを勧めていると思いこまれているらしい私と、彼女のご主人との舌戦が、彼女の声を借りて、電話線を通して繰り広げられるのだのだった。
彼女たちは、穴の中から夫を武器にして私を何度も殴りつけ、笑い声だけを自分の居場所にした。
彼女たちは、自分の身を守る為に、いつからか習慣にしてしまった隠れ蓑的な笑い声が、相手にうつろに響いていることを知らない。
むしろ場を和ませるかわいらしい雰囲気づくりをしていると思っている節がある。
彼女を探すけれど、彼女は養ってくれているご主人の一部と化していて、そこにいないのだった。
他愛のないどうにでも転んでしまう友情。人間関係の転換期かもしれない。
面白いはずはなく、ひどくがっかりして、つまらなくなってしまった。


合間に、帯どめと着物写真集「夏のおしゃれ」~池田重子が魅せる、夏のきもの美学~を見てあまりの美しさにため息をつき、物思いに耽っていた。
川や海の波の紋様にも、それはそれは沢山のものがあり、動いて止まず、帯に粋に斜めに結ばれた帯紐に、帯留めの翡翠の鯉が付けられている。
きものや帯に描かれた水辺の鳥や、草木や魚たちの美しさには見あきることがない。

鯉と言えば「高野聖」のお嬢様が、大胡坐をかいて一杯飲む時に料理される魚だ。
さかしらな男たちを、猿やヒキや蝙蝠や牛や馬に変え、親仁(おやじ・下男のじいさん)が市のたつところまで売りに行くのだが、お嬢様の味方だとばかり思っていた親仁はそうではなかった。
お嬢さまと暮らしてもよいと心底思い、山道を引き返そうとしていた僧に、お嬢さまは魔人だから「早うここを退(の)かっしゃい」と親仁は言ったのだ。
もう一つの理由には、お嬢様は若い男が好きだが、すぐにそんな男にも飽いてしまうと言うのがあった。
お嬢様と僧との間には、そんな一般常識も魔界のおきても通じないはずだ。
男女の間に何か新しいことが始まろうとしていた矢先に、爺さんが邪魔をしたという点においては、沢山の余計なことを言う爺さんの例から見ても納得がゆく。 
自分以外のものが、新しいことをしようとするとすぐ止めさせようとする、こんな現状維持派の爺さんとは友達にはなりたくないが、それプラス人を無視して何の援助もしない親にこんな爺さんを持つと大変だ。
機嫌が悪ければ道を聞いただけでも怒り始めた爺さんもいた。
こんな爺さんと一緒にいるばあさんは、意地が悪くて手がつけられないし、そうでない場合のばあさんは爺さんと全く別の世界に生きている。
アニメ「白蛇伝」の男女は、霊力を持った女性が人間になって、2人が船出をするところで話に希望と発展性が見出された。
それにしても、親仁(おやじ・下男のじいさん)に何か言われたからと言って、山を降りてしまった僧も僧だ。
そして山での出来事を、旅で道連れになった男に話すなんてね。
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