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映画「ベンジャミン・バトンの数奇な人生」

あろうことか、80歳の老人の体で生まれてきた赤ちゃんが、1980年代のニューオルリンズにいた。
いえ映画の中のお話のことですけどね。名前はベンジャミン。
生まれた頃の彼の顔はしばらくは、楳図かずおの「あかんぼ少女」にそっくりだったが、心が生まれたてだったので、憎しみや嫉妬が表情にはあらわれていなかった。
老人顔の赤ちゃんの容姿が、どんどん若返り、背も伸びてゆく非凡な人生を80年間送る。
周りの人間がそう言う現象をとやかく言うこともなく、大学の研究者からも声はかからない。
彼は、生まれてからすぐに母と死に別れ、父親から養老院の階段に捨てられる。
それ以外の彼の人生は平凡で、それなりに成り行きまかせである。
ようやく彼が(生まれてから30年経つ)40代~50代の時に、少女だったデージーも30代になり、愛し合うようになる。
デージーが40代の時に2人に子供ができるが、彼は若返ってゆく肉体に、家族が耐えられないかもしれないと言う危惧を抱き、身を引いて放浪の旅に出る。
ベンジャミンは、認知症の少年になってデージーの元に戻る。
80年かけて新品の赤ん坊の肉体に戻り、デージーの腕の中で亡くなる。
彼の逆向きの人生にも、普通どうり老いてゆく人たちの人生にも、最後は他者からの保護が必要だ。
しばらくはさしたる事件もなく、上映時間が167分と長く、眠気を催すこともあったが、ベンジャミンとデージーの物語の合間に、凝った人間の場面が現れて、そっちを見るのが何より楽しくなった。
若いころ7回雷に打たれたと言う盲目の老人が、雷に打たれるシーンが唐突に面白おかしく入る。
いつ雷の場面が現れるか楽しみでしょうがない。もう1回その雷に打たれる場面だけを見てみたい。
雷に打たれるのは、屋根を修繕中・犬の散歩の時・トラックの運転中・牛といた時・道を渡っていた時、もう1つ最後の方の場面で、など可笑しさが込み上げてならなかった。
息子を戦争で亡くした時計職人が、駅の大時計を作った時は、針が反対向きに進んで過去に戻る時計だった。
ハチスズメの入れ墨をした船長さん(ほんもののハチスズメが何回か登場)、ドーバー海峡を泳いで渡ることに挑戦し続けた女性(夫もちで、ベンジャミンと短い恋をする)、シェイクスピア劇のせりふをそらんじるアフリカ系の男。こんな人々の人生がほんの少し垣間見えた。
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阿修羅のジュエリー(2)  鶴岡真弓著

感動と呼ぶには安易すぎるし、ドキドキやキュンは他人の言葉だし、感激では上辺が熱すぎる。
あることが見えて来て、それが自分の生命活動を充実させ、高めてくれている時がある。
根源は非常にまぶしいので、そろそろとよろこびの中心のような処に近ずいていく以外にない。


不空羂索観音像の銀の宝冠(東大寺法華堂)は、翡翠、水晶、真珠、琥珀、瑠璃玉で飾られている。
水晶の玉を合掌する手で包んでいるそうだ。
個人が身につけるジュエリーは、気晴らしや憧れにとどまる二次的なものと思われても仕方がないが、仏像の場合は、皆のための希望の光(仏の教え)を具現化したものだと言える。


鶴岡真弓さんは、阿修羅像では、少年のような表情と六臂のアクションがあまりにも全面的に言及の対象になりすぎている。ジュエリーが見落とされ胸飾りが写真に撮られていない場合もある。
ジュエリーやコスチュームの文様の神々しい「装飾の輝き」によって、阿修羅像の超越性や神秘性が強まり、こめられた祈りが昇華されていると言う。
ジュエリーが、仏の神々しさやありがたさを納得させる表現であることを見逃したら、仏像を拝み見たことにはならないそうだ。
天平時代の日本にもたらされた洗練されたジュエリーや花の文様は、メソポタミアやギリシャやペルシャでも育ち、合流しさらに手が加えられたものだ。

ジュエリー一つでこんなにも気の遠くなるようなところへ来てしまった。
あまりにも調べることが多すぎて、収集が付かないが、本業とは別の幸せ感がある。

阿修羅像の合掌した手には、僅かばかりに隙間がある。
不空羂索観音像のようにその両手の中に宝石を包んでいたかもしれない。
阿修羅は乾漆像で、ジュエリーは本物の宝石類ではないが。
他の手には、太陽と月を掲げ、弓と矢を持っていた。


~~続く~~

参考文献 「阿修羅のジュエリー」 鶴岡真弓
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水晶の玉の帯飾り

帯留めを帯締めに通して帯の中心あたりにつけた後、もう一つ帯飾りと言うものを、帯の左上から垂らすことがある。
たいていは、着物と帯と帯留めに呼応したイメージの帯飾りが選ばれるので、この四つがつながって物語られるものに一貫性が見られることが分かる。
揺れる帯飾りで装飾が最高潮に達し、完結するのだ。
濃藍地の宮古上布(麻)の着物、白地の帯の前は墨色の濃淡で描かれ静かに泳ぐ鯉。鯉の周りには鯉が動いてゆらす水の線が描かれている。

帯の後(お太鼓・おたいこ)には、背中を見せて跳ねる鯉。
着物全体が、深い水底を思わせる。
帯留めは、水輪(水紋)をあらわす2つの楕円の銀細工で、粒真珠が1つずつ2個あしらわれ、淡い川藻の中を泳ぐ鯉の尾に近い下腹あたりに留められている。
鯉と帯どめが、一つ所にあるので、一見するだけで水底の時間が感じ取れる。

金細工の菊模様のついた水晶の玉の帯飾りは、細かい鎖の先にぶら下がっている。
水晶の玉は、光を透して白い帯に映り、歩くたびに揺れる。
白地の帯に映った水晶の玉の丸い影は、揺れる水面と鯉が吐く泡粒を表しているそうだ。
影をコーディネイトの一つに加えた池田重子さんに感服する。
賢治の「クラムボンはわらったよ」の世界にも思いを馳せることができる。


川や海の魚に触ると実物は生臭い。着物や帯に生息する魚たちは匂いを放たない世界にいる。いちいち生の匂いを感じていたら着物を着ることができなくなるだろう。

コンクリートで護岸された汚れ川、ほぼ全員が携帯をいじっている電車内で、人は死んだ怪物めいて来て、体全体で強弱はあるがリズムのない奇声を発している。
薬害や大気汚染や加工食品ミネラルのない野菜たち、水銀を体内にため込む魚たち。
執拗に、超絶した美しいものやユーモアや幻想美が必要になって来る。



参考本 「夏のおしゃれ」池田重子流きものコーディーネイト
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父の陰(かげ)

母は若いころから、こちらから電話したり、訪ねたりしなければ何十年も、何の音沙汰もなく、返答も返ってこないような人であった。この頃はそんな母の所に、月1回の母の通院のため訪れている。
20年前に父母が建てた家には住んだことがないので何の懐かしさも湧いて来ない。
父の存命中の母は、こちらの相談にも耳を貸さず、いつも逃げ腰で父の手下か小間使いとしか考えられなかった。
その場で強い主張をする人間の意見に従うのが母の倣いであった。
恐らく人をあやめる以外は、父の命令を待ち、言いつけを守って、子供の存在すら忘れていた。
めんどくさいことは無視することで、人間には関わらず生きて来ることができる環境にひきこもっていた。
その陰は父の気分で母に覆いかぶさっていたので、父亡き現在は、あっけらかんと明るい。
以前は、こちらにまでその陰の汚水が流れ込まないように、常に気をつけていなければならなかった。


最近毛染めで母の右頬に湿疹ができた。
お岩さんのように紫色にはれたので、美容院に行くのはやめてもらい、母の乾燥した髪を大きなハサミでじょりじょりと短く切った。可愛くなったと誉めると喜んだ。
父が生きていた時のような、陰と否定感が母の声から無くなり健康そうだ。
豊後牛の鉄板焼きを食べに連れて行くと、美味しそうに1人前を全部平らげた。
糖鎖吸収率100パーセントサプリメントも飲んでもらっている。
これでは100歳まで生きそうだ。
私は81歳の母の夫になったような気がしている。
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「詩の旅 絵の旅 」小柳玲子(1)

九州西日本新聞に、連載50回で文を書かれると言うお便りを、詩人の小柳さんからいただいた。
さっそく読めなかった初めの記事の切り抜きを、西日本新聞を取っている友人知人に頼んで、送ってもらった。
大雨の日や、夕方しか時間の取れない時以外は、新聞は自分でJRの駅で買い求めている。
今日で連載8回目だが、3回、4回、5回目にメンデルスゾーンのことが書かれている。
愉快で痛快で小気味よい。
10年くらい前に小柳さんの夢人館でメンデルスゾーンの画集を買った。
一言では言えない暗い怪異な魅力を持つリチヤード・ダットやジャン・デルビルの画集も一緒に買った。
若くして亡くなった美男のユダヤ人の作曲家メンデルスゾーンは、風と空気と水の流れが繊細に動いている絵を描いている。
今年の私の教室の12教室合同音楽会での課題曲の一つに「歌の翼に」を選曲した。
「歌の翼に」の曲は、聖なる領域に踏み込ませてもらって、珠玉の羽をもらって、この世に戻って来れる曲である。
まだ「歌の翼に」の余韻が残っているうちに、小柳さんのメンデルスゾーンについての記事を読むことができたのは、うれしいことだ。

~続く~

サラ・イイネスの「大阪豆ごはん」の前の作品の、豆ごはんの炊ける前のことを描いた「水玉生活」をやっと読めた。
「誰も寝てはならぬ」(1巻~11巻)はそばにおいていつも寝る時に愛読している。
何回読んでも題名のとうりに寝られない。
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水の文様 ・ 着物 羽織・・・・簪 帯留め(1)

流水、波濤、渦巻き、滝、雨、光琳水、観世水などの文様は流動している。
着物の文様には、写実的な波頭のしぶきや細かい飛沫までが描かれたものもあるが、図案化(デザイン化)されたものも多い。図案には細かい飛沫まで取り入れられたものがある。
エネルギーを得て波となった真水や海水が、ほんとうに、着物や羽織に図案化され、刺繍されたり、描かれたとうりに、見えるのだろうかしばらく観察して見た。
海水が棒状のエネルギーになって海岸へ押し寄せる時、その先端の波は、にぎりこぶしのような塊になってクルリンクルリンとリズミカルに割れていくつもカールしていたりする。
海岸へ押し寄せる波のこぶしのそれぞれのふくらみを見ていると、着物の文様などに図案化されたものとそっくりに見えてき始める。
具体的な波が、自分を通して抽象化され、自分の中で波の記憶と結びついて増殖され、再び簡素化され、着物や羽織の波の絵にそっくりになっていったので嬉しかった。
雨のしぶきの線や点々も、川の寄せ波も波紋も同じく、しばらく見ていると細かいものが省かれて太い線が形を成して見えて来て、図案が生まれる際(きわ)をつかめた様な気がした。歓喜である。
川の上流から流れが集まって、一つの流れを作り、それが合流してリズムをつくり、ぶつかったものは屈折して消え、ぶつかり合って曲がって生まれた線は複雑な力を伝えて同じ流れをいくつも作り、均等に押しあいながら文様を作っていく。流麗。

~続く~

圧倒的に時間に追いまくられて、ほっとする間がない。詩人の西野りーあさんが海辺や山辺で常にリフレッシュしなければ身が持たないと言われることに共感する。
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阿修羅のジュエリー 鶴岡真弓著(1)

6本の腕のうち2本は合掌し、あとの2本は弓と矢を持っていたと言われ、残りの2本は太陽と月を掲げていたと言われている阿修羅像が、いよいよ7月に九州国立博物館にやってくる。
もともと阿修羅の全身には、生命の色としての強烈な朱の色が塗られていた。
腰には、朱色の地に朱、緑青(ろくしょう)、群青の宝相華文(ほうそうげもん)と言われる幻想の花模様が描かれた巻きスカートを巻いている。左肩には同じ布のたすきをかけている。
胸と手首には金色(こんじき)のネックレスブレスレット、細く長く美しい腕には腕輪をつけている。
髪は櫛目がついた高く結った宝髻(ほうけい)で、足には板金剛(いたこんごう)と言われるサンダルを履いている。

鶴岡真弓さんは、人間が気晴らしや遊びでつけているアクセサリーと、阿修羅が身につけているジュエリーとの違いを述べている。
阿修羅像のジュエリーは、人間を超えた存在の超越性や神秘性を象徴する「神々しい」美であり、本来、阿修羅像は、人々が手を合わせて拝むものであったことを忘れてはならないとのことだ。
シルクロードを超え、アジアとヨーロッパを行きかった「光のデザイン」「太陽神の魂の装飾」とはどんなものなのか、次回に続く。

参考文献 阿修羅のジュエリー 著者鶴岡真弓
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羽裏(羽織の裏)美意識・髑髏文様

羽織はもともと男衆のものだった。江戸の中期あたりから侍、下って町衆、若衆と広がって行った。
初めに羽裏に文様をほどこしたのは、江戸後期の遊里であった。
それまでは、儀礼に着る羽織の羽裏には、黒、紺、無地が使われたが、町着では、縞、小紋、格子があった。
女衆が羽織を着るようになったのは一般的には、明治の中頃。

羽裏は羽織の裏地のことで、着ている時には見えない。
脱ぐ時に見えたり、裏を上にして置いた時や、えもんかけ(衣服かけ・ハンガー)にかけた時に見えるものだ。
男ものの羽裏には、表地よりもインパクトが強く人目を引くもがあった。


まず気に入ってしまったのは、鯛ずくし文様。男もの。
何匹もの紅い鯛が、鱗もようも美しく、白い腹と黒い眼玉をみせてうち重なり、1匹として同じ鯛勢(体制?)のものはなく、縦横無尽に絡み合っている。目玉の黒の点々が上から下までの黒い流れを作っている。魚顔がのびやかでエネルギー満点である。

野菜や海老、鳥や花、風神雷神の力量のある文様もさることながら、個人的な好みは、帯どめと同じで帆船文様である。
荒波にもまれて白いしぶきを上げている2隻の帆船。荒波が食パンにバターを塗った時にできる層のように彼方まで続く。
もう一つは、赤地に風になびいている優美な白い帆船。すべての先端がしなっている、なよやかな貴婦人。


最高に驚愕したのは、「骸骨舞踏文様」!
男女の骸骨が、暗がりの中で抱き合って悪頭(ワルツ)かなんかを踊っているのだ。
骸骨どうしが片方の手を握りあい、男性は左手で女性の腰に手をかけている。
2人ともほほえみ合っていて、えぐい。
それぞれの悪頭(ワルツ)を踊っている骸骨があと4体ある。
野ざらしや鬼などの意匠も大正時代には流行している。
現在の若者で、Tシャツや上着に頭骸骨を胸や背中に付けて歩いている者がいるが、おちゃらけた若者の間延びした表情とは均衡していない。完全に負けている。
もう1つ「波に髑髏文様」。男もの。これがすさまじい。赤と黒の血の海に、1つたりとも同じ格好ではない髑髏がプカプカと浮いている。いったいどういう趣味なのか。活気づいているようにも、頽廃的にも受け取れるが、周りの人たちはズキンとしたに違いない。ものすごい遊び心だ。


参考本「日本の粋と伊達 羽裏」岡重コレクション
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「ターミネーター・4」と「トランスフォーマー ・ リベンジ」

どちらも機械(異星人の金属生命体)から地球を狙われるストーリーの映画である。
そしてまたどちらにも苦難を通過しながら育ってゆく男女の愛情や、人々の人間らしい反応が取り込まれている人間味のある物語である。


映画「ターミネーター・4」には、何らかの罪で死刑にされたあと、人間の頭脳(脳)と肉体(心臓)を与えられ、あとは全部機械の体で蘇った、最強の謎の男マーカス・ライトが現れる。
彼は、脳と心臓以外は機械でできているが、自分のことを人間の男だと思っていている。
たびたび人間だった頃の記憶がフラッシュバックし、胸や頬の肉がはげて機械が露出しても、苦悩に満ちた人間らしい表情をする。

2018年、核戦争で荒れ果てた地球上では、スカイネット(機械軍)と人類の戦いが繰り広げられていた。
スカイネット(機械軍)は、火で焼こうと、爆破しょうと煙の中から、ニューっと立ちあがって生き返える強力なターミネーターを使って、生き残った人間を狩りたてている。
前作の「ターミネーター 3」で産まれた赤ん坊は、30代のレジスタンスのリーダーのジョン・コーナーになっていた。
リーダーのジョン・コーナーの父カイル・リースは2018年現在ではまだ若者で、これから先の未来を現わす映画でタイムスリップして、1980年代の地球に行き、そこで母親と会い、ジョン・コーナーが生まれるのだ。
しかし「ターミネータ・3」では、すでに1980年代にタイムスリップしてきたカイル・リースが登場している。
ややこしいかもしれなのでもう一度言うが、彼の父親になった人物は1918年の現在ではまだ若者である。
2018年に生きている青年カイル・リースは、2018年以降にタイムスリップして行き、ジョン・コーナーの母と結ばれる。
彼女がジョン・コーナーを妊娠している時に彼の父であるカイル・リースは亡くなっている。
2018年に生きている青年カイル・リースと1980年に生きていて亡くなった父親は同一人物である。
脚本家は、未来を背にして現在や過去を見たり、過去を背にして現在と未来を見たり、現在にいて未来の人物の生死が現在と過去に及ぼす影響を常に頭に入れておかなければならない。
その彼が、敵に捕まったことを知ったジョン・コーナーは、父親が殺されてしまうと未来に生きている自分はいなくなってしまうので、謎の機械男マーカス・ライトと父親を助けるべく手を組む。

ラジオでレジスタンスの仲間や生き延びている人間にジョン・コーナーが呼びかける時には、「この放送はジョン・コーナーでした」と言う声の響きは、信頼と希望と憧れを聞いているみんなに喚起させる。
ギリギリのところで聞くリーダーの名前がもたらす威力にはすごいものがある。

レジスタンスの中に、空腹のまま3日も荒野を歩き続けられる最強の女性も混じっていて、謎の男マーカス・ライトに出会い2人で味方の所に行くために短い旅をするうちに、彼の人間性に信頼を置き、愛情を感じるようになる。
彼女は、誰が何と言おうと、マーカス・ライトと言う男が、半分機械ロボットであることが分かってさえも、彼に惚れこんでしまい、彼が殺されようとする寸前にリーダーを裏切ってまで彼を助ける。


機会人間マーカス・ライトは、人間でありレジスタンスのリーダーである人望厚きジョンコーナーが痛手を負って死にそうになると、自分の心臓を提供する。 
心臓を譲って死んでゆく機会人間のマーカスライトからは、人間の誇りやそれゆえの辛さが生まれて目が離せなかった。。
映画「7つの贈り物」でも、アフリカ系のアメリカ人の男性が、自分の肉体の7つの部分を7人の人間にプレゼントして死んでいった。自分が臓器を提供する人間は、どんな人間なのか7人に確かめに行く所が、人間らしいと言えば人間らしい。



「トランスフォーマー・リベンジ(雪辱を晴らす)」は、太古の昔、異星から地球にやってきていた金属生命体のオートロボット(サイバトロン)と人間が協力して、悪玉の金属生命体のオートロボット(デストロン)と戦う。
サイバトロンとデストロンは代々戦いを繰り返してきた異星金属生命体である。
大学生のサムが、死んだロボットが再生できるオールスパーク(中枢生命体)のかけらを持っているので、彼と恋人の2人はデストロンから狙われることになる。
見どころは、トランスフォーマーと言う金属生命体の元の体はほとんど車体で、それがガチンゴチンと大音響をたてて家ほどの大きさのロボットに変身し、三つ巴になって戦いを繰り広げるところだろう。
金属生命体のロボットが発する音声は低く、地獄の底から響いてくるような恐ろしさがあり、普段はそのような恐ろしさを含んだ低音は聞くことができないので魅力的でさえあった。
これでもかこれでもかと飽くことなく続けられる戦いはすさまじく、中国やピラミッドのあるエジプトの遺跡が、どんどん破壊される。

最新の戦闘機や潜水艦まで現れ、地上戦もすごい迫力である。
口から金属の蛇のような管を出してサムの口から侵入しようとして失敗する超美人ロボットも現れる。
マニア向きの映画で、教科書タイプの人間は一歩離れて娯楽として楽しめないから、本気で怒り始めるだろう。その反感で萎縮した、道徳顔を見たいとは思わない。
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藍墨茶(あいすみちゃ)

着物を着る時は、右前を下にし、左前を上に重ねるのだが、下に隠れる方には果たしてちゃんとした装飾がほどこされているのか、いやきっと何か粋なことが考案されているだろうと疑うことはなかった。
左右同じ種類の図柄でありながら、大きさや色合いがちょっとづつ違っていて、なお対応し合っている大小の模様(花・鳥・楽器など)が星の数ほどあった。
上になる左前に、豪華な花が描かれ、下になる右前には、それと対応する少し控え目な花を咲かせているものもあった。
動くたびに見える前面の左右の模様に見事に対話させている図柄は、脇や後ろとも一続きになっていて、全体で呼応しあっている。

すごく楽しいのは、左前が金と銀と黒赤糸で刺繍された雷神図で、右前が金色と銀色の稲光の着物だ。
靄がかかっていて、動いている空気感がある。
着て動くたびに、着物の裾がめくれ、踊る雷神や、稲光が垣間見える。
着物地は藍墨茶(あいすみちゃ)。墨色が藍色を帯びている色合い。
茶とは、茶色のことを指すのではなく、くすんだ色合いと言うこと。
黒だけでも48色あるとか、灰色は100種類(多いと言う意味か)もあるとか聞いている。
墨染(すみぞめ)や銀鼠(ぎんねず)、利休ねずみ、などよく聞く名前だ。
灰色の種類を数えると、驚くことに88種もあった。昔の人はよく目が見え、識別もできたのだろう。自然治癒力も栄養素の吸収率もすごかったのだ。
ある意味いい肉体持ってましたね。多量加工食品の摂取で、解毒もできず、薬害その他による免疫機能の異常でアレルギー反応しか起こさなくなった現代人の肉体にはつらいものがあります。

長襦袢(下着)にも、凝っていて、上品なのから、ギョギョギョと驚愕するものまである。
着物や羽織や半纏の裏地にも、ぜひ手元に置きたいものも多い。


型染めや細かい模様が同じように均等に描かれているものは、左前右前の模様は左右対称である。
歩くと、左右同じ絵が見えるが、裾や袖から工夫された裏地の色や長襦袢の模様も見え隠れするので新鮮な感じがする。
さんざん使われた例えで耳たこかもしれないが、トリオ、カルテット遊戯、又はオーケストラの交響詩である。




個人的には、100人で吹く「コンドルは飛んでゆく」をメインに行なった12教室合同音楽会も、平安の内に終了した。 小学生の時に出会った土笛が、時を経てみんなに伝わったことには、感慨深いものがある。 お客も入れて180名余りが怪我もなく音に巻き込まれて、覚醒できた。
木造りのこじんまりしたホールは素晴らしく、1つあんなホールが欲しい。


参考本  「着物と日本の色」弓岡勝美・ピエ・ブックス   「羽裏」・アシェット婦人画報社
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