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漫画・青池保子 「修道士ファルコ」の中の用心棒 

14世紀の元騎士の修道士ファルコ(鷹)自身が、ドイツのリリエンタール修道院の唯一の強面の用心棒であることは間違いない。
腕力が必要な時には、蚤の心臓しかもっていない修道院長や修道院の経済を牛耳っている副院長から剣の腕を見込まれていて、盗賊たちを追っ払うように頼まれる。
修道士ファルコは、危く命を落としそうになりながら、剣を振りかざして修道院を守る。
修道院の土地を、陰謀で取られそうになった時も、まずは体育会系だと言われているファルコの武力で時をかせいだ。
首謀者は、以前リリエンタールの修道院にいて、今は別の修道院にいる秀才の修道士だったが、リリエンタール修道院の天才の誉れ高い修道士に見破られ、終身刑は免れたが、終身刑よりもひどいと言われている聖地サンチャゴへの巡礼を命じられる。
しばらくして元役人の修道士や、修道院の古文や壁画などの芸術的な部門を受け持たされている芸術家の修道士の頭脳を借りて、ことが解決してゆくのである。
まずは生き伸びるために、降りかかった火の粉は武力ででも払わねばならない。
近くの尼僧たちだけの修道院は、おばあさんたちばかりの中に、絵の上手な若い修道女が1人いる。
幼児のころ修道院に向かう両親が盗賊に襲われて殺され、林の中をさまよっている時に尼僧たちに助けられたので、世間のことには疎く何も分からず、うぶである。
盗賊に話しかけられれば、何の疑いもなく門を開けるくらいはしてしまう、きれいなことしか知らないうら若き尼僧である。
お婆さんの尼僧たちやこの若い尼僧は、小屋の建て替えも、葡萄酒の製造も、穴掘りも、力仕事は全部男性修道士に無料奉仕でやってもらっている。
尼僧院に無料奉仕に来た修道士たちを、木陰に隠れた老婆の尼僧たちが、異様な興味と好奇心をもってまじまじと眺める。
若い尼僧たちに強烈な迷いや動揺を起こさせた男性が登場した小説「黒水仙」は映画にもなったが、お婆さんになってもすごいものがあるのだ。
勿論、何かあった時の用心棒役も修道士ファルコの騎士道精神に頼っている。

現代においても、父や、夫や兄や弟に用心棒になってもらえなければ、本当に現実問題として大変苦労する。
用心棒という言葉に抵抗があるなら、保証人依頼や経済的後ろ盾などなどと言い換えてもいい。

尼僧たちの修道院に宇宙人が会いに来て、何かの交渉事を持ちかけたとしよう。
平和的な友好関係を結びに来る宇宙人ばかりだとは限らない。
その時には頭脳明晰な体育会系の騎士を、修道女の用心棒につけないと何をされるかわからない。
尼僧たちは宇宙人によってその日のうちに、土の中に埋められるか、焼かれるか、串刺しになるか、体内に棲まれて支配されるかも知れないことは覚悟しておいた方がいい。
自分たちが神の言いつけを守り、毎日祈っていて心が清くても、実際手ばなしで和平が結べるばかりだとはとても思えないからだ。
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映画「サバイバル・オブ・ザ・デッド」 監督ジョージ・A・ロメロ

久しぶりのウェスタン調のアクションのゾンビ映画。
世界中の死者たちが急に蘇る原因は追及されないまま、生き残った人々が安全な場所を探しながら逃亡するアメリカ映画。
ゾンビたちの食料は、生きている人間だが、逃亡中の生きている人間の毎日の食事はどうしているのか分からなかった。
島には2つの祖先を持つ住民たちがいて、2人の男性の牧場主のリーダーが勢力争いをしているのが西部劇的である。
1人のリーダーは、島にいるゾンビをピストルで撃ってすぐさま殺さないと、少しでも隙があれば、自分たちが次々とゾンビの餌食になる現状の中で闘っている。
生きている人間には、仲間意識を持とうとする普通の感覚を持った人で、結構魅力的である。
彼は、もう1人のリーダーに島を追われ、彼を中心に窃盗団が自然に出来上がり、インターネットを使って島以外で生きている人間をおびき寄せている。

もう1人のリーダーは、祖先から受け継いだ自分の血と、子供を含む自分と同じ祖先の血を受け継ぐ人たちを守ろうとするが、もうほとんどゾンビになってしまっていて生き残っていない。
血縁関係にあるゾンビたちをベッドや、もと働いていた台所や農場に鎖でつなぎとめ、人間に復活する方法が未来に見つかるかもしれないことに望みを託している。
そう言う日が来るかもしれないことを望んだところが今までのゾンビ映画と異なっている。
その割には閉じ込めているゾンビや、手下には邪険で、気に入らないとすぐにもどんどんピストルで撃ち殺している。

州兵だった男女や途中から仲間になった者たちが6人で、ラジオで聞いた、比較的ゾンビの被害のない島に渡る。
これは島を追い出され盗賊になったリーダーの策略だったのだが、2人のリーダーが、西部劇のような1対1の対決をしたりした。
リーダーの双子の娘のゾンビは、美しいだけに背筋がぞっとした。

映画の主題は、身内の者がゾンビになった時に、すぐに殺すには忍びないので、閉じ込めて愛情をそそぎ、調教して手なずけ、人間を食べるのではなく、馬か豚を食べるように仕向けようとすることである。
馬を喰い殺すゾンビの群れはいただけなかった。


日本の昭和の時代に、苦労を抱えながら明るく生きた女性たちの映画「FLOWERS フラワーズ」もはなやかでよかった。
好きな色香の順に言うと、末広涼子、蒼井優、鈴木京香、竹内結子、仲間幸恵、田中麗奈。
花嫁姿の蒼井優さんは、可笑しくない範囲で、角隠しをもっと深くかぶった方が、額の長さが目立たなかくてよかった。彼女の額は聡明で生え際が美しい。


●個人的には引越しが迫っている。DVDなど大事に見たいものは引っ越し後に、ゆっくり見たいと思っている。
細胞の先の糖鎖のセンサーが鋭敏になり、自己免疫による回復が早くなった。
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これやあれ(2)

<これ>や
習い事の教室は、何と言ってもおばさんパワー全開である。
人数15人中、2人~3人がおじさんである場合は、多勢のおばさんたちの中で、おじさん同士が助け合い友情が芽生えるか、お互い牽制しあって切磋琢磨し技術が伸びて行き、何となく活気が生まれて、うまくいくかだ。

教室の14人がおばさんで、おじさんが1人の場合は、おじさんが居づらくなってやめて行くか、そのおじさんの結婚前の家族構成が、姉妹の中の1人男子であり、子供が娘さん3人であるなど女性のあつかいに慣れている場合、おばさんたちの勘所を押さえて、重宝がられ、かわいがられてマスコット的存在になる場合もある。

おじさんが60才前後でまだ若く、人なつっこく少しだけハンサムで、積極性がある場合、おばさんたちは何となく元気になって艶めく。
ここまではいいのだが。
そのおじさんが、自分のわずかな人気と積極性の上に胡坐をかきはじめ、係りになってもいないのに、いい気になって何の相談もなく勘違いの独断で、采配を振るおうとし始めると、おばさんの中の学級委員的な正統派のリーダーや、やがては講師の耳に入り、透明な公平さを求められ、対立することになる。
定年退職したおじさんは、元の職場の権力をそっくりそのまま習い事の教室に持ち込もうとすることがある。
この時は、まだ問題が見えているので、何とかゆるゆるではあるが、知的な解決の方法は幾通りか残されている。

一番複雑で手に負えないのが、家父長制の抜けきらない、悪気のない真面目なおじさんの場合である。
適当にやぼったくて、にこやかなので、おばさんたちに安心感を与え、いわゆる母性本能をくすぐられるのだろう、おばさんたちは、おじさんがいなかった時よりも嬉しそうである。つやめくと言うよりも一歩進んでほとめくらしい。
その雰囲気の中で、講師が演奏の上中下のパートを決めて行くのだが、時々おばさんがおじさんのパート側に勝手に入り込んで一緒にやっていることがある。
講師の言うことは何も聞こえなくなり、おじさんの命令をつい聞いてしまうのだ。
1人分音量が多く聞こえるので、おばさんの指使いを見ると、やはりおじさん側についているのである。
その場合は、ことを荒立てることなく、勝手におじさんと同じパートになっているおばさんはそのままにしておき、別のおばさんに、他のパートになってもらう。
素知らぬふりをして見ていると、おじさんが「あんたこっちやが」(こっちのパートに来い)と勝手に言っているので、内心おやおやと笑ってしまう。
女の人は、特に家庭にいる人は、男性(夫)の命令や言及に無意識に従ってしまうらしい。
だからたいていのおばさんは当てにならないのだ。
おばさんは「夫の働いたお金で習い事に来させてもらっているのよ」と言い残して、夫や親戚の都合で何時でも現場を立ち去ってゆくので友情は育ちにくい。
おばさんは、いついかなる時でも、突然約束事をキャンセルするものだと思っていたほうがよい。
気力が一定に充実した、ねばりのある独り立ちの演奏ができないのは当然なのだ。
習い事の教室で、周りの自主性のない女性を従えてしまう男性がいる。
面倒になるので、どっちもどっちだが、人数の関係上、おじさんの方にやめてもらうように仕向けることがある。
おじさんが、3拍子の曲を、途中の難しいところは4拍子のスローテンポにしてしまっても、おばさんたちにはそんなことはどうでもよく(違いがわからないのだろう)うっとりと聞き、なんと、気持ち悪がらずに、拍手までしてしまうのである。驚き桃の木ギョエーである。
(断るまでもなく、ここのおじさん、おばさんはほんの一部のことに違いない)


<あれ>や
最先端の情報では、イブたちの先祖は7人ではなく、12人だそうだ。
フェミニズムが男性を差別し排斥するなどと言うことはもう分かっていたことだろう。
自分の読みたい詩や小説は自分で書かなければ、生きている間には味わえないと思ったら、ほっとしたが、別の焦りが生まれて来た。
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これやあれ

<これ>や
ヨーロッパの中世の宗教的な奇蹟が起こる要因の奥には、僧による祈りがある。
日本で言うところの生者による死者の供養と言うものでもある。
死者のためのミサを執り行う僧が親戚縁者にいると、悪業をなして死んだ者でも少しづつ罪が許されていく。

生きていた時には、男たちに混じって、みだらなおぞましい悦楽に浸った女たちの葬列が闇の中を進んできた。
女たちは馬に横乗りしているが、強風にあおられては飛び上がり、灼熱の釘が出ている鞍の上に落ち、尻を刺し貫かれた上に、釘に焼きたてられる苦痛を味わっている。
その有様は、日本の地獄絵の亡者たちと酷似している。
ある僧が騎士の幽鬼に出くわし、思わず聖母の名を呼んだ時、騎馬武者が駆けつけ危いところを救ってくれた。
よく見ると、イギリスで討ち死にした兄で、「今朝お前が唱えてくれたミサで、お前とおれは助かったのだ。おれは苦痛の極みであった重くてたまらない盾を持たなくてよくなった」と言う。
兄の踵についている拍車は、火でできていて重く岩山を持ち歩いているようだと言う。
兄は、昔この拍車を駆使し、戦場で多くの血を流したことの報いだと言い、自分を思い出して祈ってくれと頼まれる。
お前も長くはない人生の罪について考えるがよいと言い置いて兄の亡霊は立ち去る。

<あれ>や
仏教が入ってこない日本の古代から中世では、近親者のみそぎや祓いで禍や汚れは洗い流されていた。
仏教が入ってきた中世からは、罪を意識させられることになった。

<これ>や
泉鏡花の「高野聖」の高僧が美しく魅力的な、山に住む女人に、後ろ髪を(髪のないのが僧なのに)引かれてしまったあの情念は解消できたのだろうか?
途中でほったらかしにした人間関係を、旅人にまで語らなければならなかったその女人にたいする強い情念を、どのように修めたのだろう。
カトリックの修道士はこの世を去る時に告解師にすべてを話して神の許しを得る。
日本の高僧が死んだあと、彼の悔いが彼を幽鬼に変えていないだろうか?
そんな話を読んでみたいがまだ見つからないので、自分の読みたいものを自分で書くしかないかもしれない。


参考本 「中世の奇蹟と幻想」渡邊昌美
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あれやこれ(2)

<あれ>や
介護施設にボランテイアで訪問コンサートに行くと、呼び覚まされるものがあるのだろうか必ず歌い始める人が現れる。
大合唱になる場合もある。
「さあ目を覚ましてくださいよ、そのままあっちの世界に行かないでねー、行ってる人は帰ってきてねー」と言うとみんな大笑いする。
どこにでもいるのものですね1人は。見事なオルテンドーばあさんが。
オルテンドーとは中国やモンゴルあたりで歌われる特殊な声の歌で、日本の長唄と言われている。とは言っても長唄とは少し違う。
オカリナの音に合わせて即興で高い声で歌うおばあさんの声は、奄美あたりの鍛えられた島歌にも似て、きらきら感、ひらひら感の生命力がある。

<これ>や
国立図書館にしかない雑誌記事の閲覧コピー許可証を手に入れたので、イギリスの聖カスバートのことを調べたいと思っている。
ヨーロッパ中世の奇蹟譚は興味深く、日本の地獄絵にも似て餓鬼のような男女や高僧までが死してのち、暗闇や月光の中を不吉な葬列を組んで歩む。
信者の臨終の懺悔を聞く告解の役目を果たした高僧が、自分の忌まわしい罪を悔いもせずに死んだのちは、おぞましい姿で彷徨う。
日常生活では包み隠されてきた、心の奥底に淀んでいる血塗られたおぞましい事件は、奇跡譚や幻想譚に姿を変え修道士たちによって書き遺されている。
日本のなになに草子もその類である。


*ブログ投稿の文は、たびたび保存しないと、手違いで消えてしまうことがある。長文が消えた時にはがっかりした。
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あれやこれ

<あれ>や
今一番やりたいことは、深山にある芋畑の草取りである。
湿り気のある木々の匂いのする風が吹いているとなおよい。
畑の周りに、スモモや枇杷やグミ、梅の実が熟れているといいな。
小さな滝があって、滝の後ろに洞窟があり、奥深く入って行くと、岩の中の金や水晶、メノウや琥珀や翡翠が光っていてあたりが明るい。
地下水の水琴窟の音もする。
科学的な事実ではあり得なくても、当初からそんな話はするつもりはないのだから、いいのだ。
メノウや琥珀や翡翠以外は、ほとんど子供のころに体験したことだ。
「ほたる来い」の曲の2部合奏は6月~7月はひっきりなしにオカリナでやっているが、ほたるの餌になるカワ二ナは鉄分豊富で美味しいので、ほたるたちの横取りをしてどっさりゆでて食べていた。

<これ>や
一番行ってみたいところは、相模原市にある宇宙科学研究本部にある博物館の中のシアターである。
コンピューターグラフイックで小惑星探査機のはやぶさくんの一生の映画を見ることができる。
小惑星イトカワは、初めはアメリカが発見した小惑星である。
イトカワは、日本の宇宙やロケット開発の父の糸川英夫さんの名前から命名されている。
小惑星探査機はやぶさくんは、地球からロケットで打ち上げられた後、1年間は太陽をまわる軌道を回り、地球に近ずいた時に、スイングバイを実施した。
スイングバイとは、地球の重力を利用して、方向や速度を変更することで、1年かかって、太陽周期軌道から、小惑星へ向かう軌道に移って行った。
小惑星探査機はやぶさくんを管理制御した管制室に貼ってあったお札は、神社のものではなく、東京台東区のお寺「飛不動尊」のものだった。訂正します。

<あれ>や
ここらへんでは、川に沿って1キロばかり、熟年の方々の楽しみである色とりどりのお花畑が続く。
朝歩きの時に蟹の爪のような花がこんもり茂った小木を、さし木にするらしく3人ほどで分け合っているところに加わって、一枝もらった。
名は「小海老草」と言い、育てているおばあさんにつやつやにされ、かわいがられている。メキシコ産で別名はぺネロペ。
時計草だの、てっせんだのの名前をみんなで言いあうと喜びが湧いてくるのは、絶妙な姿かたちに畏れと憧れを抱いているからだ。

<これ>や
惑星探査機のはやぶさくんの落したカプセルはいずれ皆に公開されるだろう。
触れることもできない、行くこともできない月から、人間が持ち帰った石を見た時、本当に月があることを実感したいのだけれど、よくわからない怖わさを感じた。
自分で月に行って石を掴んで見た時、事実の手ごたえを直に感じることができて、初めて怖くなくなるのかもしれない。
これは未知のものに対する防衛本能だ。
これがなければ、極端に言うとマムシとかストーブとかヘリコプターとか、地雷とか珍しいものがあればすぐさま駆け寄って行って触り、大変なことになるだろう。
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ターゲットマーカー

オーストラリアのウ―メラ砂漠の上空の夜の闇の中に、自分を燃やしながら消えた惑星探査機はやぶさくんのことは、10人のうち1人は関心を持ち、話題にするとほとんどが涙ぐむのであった。
燃え尽きて行った美しいブルーは鳥の形をしていた。

ターゲットマーカーとは、直径10センチほどの球で、周りに反射シートが貼り付けられている。
小惑星イトカワに接近した探査機のはやぶさくんが、ターゲットマーカーを投下し、フラッシュをたき、ターゲットマーカーが輝く。
はやぶさくんは、これを目指して着陸する(以前着陸できないと書いたのは、小惑星イトカワへの接触が1秒~2秒しかできないことを言っている)

はやぶさは自己を燃やす。
ターゲットマーカーには149カ国88万人の名前が記されていた。
「星の王子様に会いに行きませんか」と言うキャンペーンに私ものりたかった。


時間がなく、10分で書くブログ。時間が欲しい。
はやぶさくんのように自分を燃やしたい。
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はやぶさくんの地球帰還

はやぶさくんとは、無人の往復型の小惑星探査機のことで、3億キロ離れた小惑星のイトカワを探査した。
3年で戻ってくるはずだったが、3つあるエンジンの不調で2つが使えなくなったり、燃料漏れで姿勢を崩し、何日も行方不明になったりして、結局、暗黒の宇宙空間などで7年間旅を続けた。
幾多の苦難を乗り越えて使命を果たしたはやぶさくんは、6月13日にオーストラリアのウ―メラ砂漠に、カプセルを落した。
満身創痍のはやぶさくんの本体は22:51に地球の大気圏内で青い光を放って燃え尽きた。
地球から見ると南十字星の上で燃え尽きた。
燃え尽きようとする青い光は、胸に迫った。

イトカワは小さく、直径540メートル、ピーナッツの殻と可笑しいくらいそっくりな小惑星だ。
重力の小さいイトカワには着陸することができないので、金属球を打ち込み、太陽系の誕生当時の謎が解けるのではないかと言われる飛び散った粒子を採取した。
はやぶさくんは、その場でどういう行動を取るべきかを考えることができる自立機能を備えていた。
カプセルは、町工場の60代70代の熟練工が作った。
宇宙計画は、7年前からチームを作って立てるそうだが、はやぶさくんの計画は25年もかかっている。
はやぶさくんの生存が危ぶまれた時、関わった科学者やプロジェクトチームは、やるべきことを成し遂げた後、奇跡を祈ったそうだ。
ZAXA(宇宙航空研究開発機構)の中に神社のお札が10枚ばかり張ってあった。


はやぶさくんのことは、詩人の西野りーあさんのブログ記事で知ることができずっと注目していた。
日本のテレビでは生中継しなかったので、NASAの撮影動画で見ることができた。
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即興の楽しみと癒しは・・

あらためて考えて見ると童謡や唱歌、「虹の彼方に」や「ひまわり」などの映画音楽、「G線上のアリア」や「アダージョ」などのクラシックなどの誰かに作曲され、音が楽譜で確立された曲をオカリナで再現するのもよい。
2部合奏や3部合奏もよい。外れていない音同士の合奏だと調和が生まれるのでなおよい。
よいことずくめだが、同じパターンで何度も繰り返すと、新鮮さが失せてくる。
演奏者が、どの曲に対しても、初めて出会ったときのように初々しく驚きを持って取り組めて、それでいて技術は熟練の域に達していることが望ましい。
それはプロでも難しい。
音程が外れていても、ちぐはぐでも、習い事の教室生20名で介護施設に行き、御愛嬌と誠実さで乗り切れる場合は、ボランテイアで聞いてもらう時だけだ。
自分にとって、ボランテイア活動は、一応達成感はあるが、一緒に生きている場所に立っていることを確かめ合い、教科書のような正しさで、気楽に挨拶を交わしているような予定調和があるだけだ。

即興に興味のある講師1人の演奏では、なかなか人の心には触れられない。
たとえ、あの偉大で繊細なグレツキやアルボ・ぺルトを聞いてもらっても無反応かふーーんと言うくらいである。
童謡や流行りの歌などの知ってる曲を口ずさむことや演奏することにだけに反応があり、安心の笑顔が生まれる。

発表会の時に、気持ちのいい音同士の即興の大波のうねりをオカリナ3種で作ってみようと思う。
私の場合は、即興の生まれる井戸のようなところから溢れてくるものだけが、心を蘇生させてくれる自由な力を持つ。
地下の鉱脈や空の船からの通信を受けることができるのだ。
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イングランドの聖カスバート

ブログを開いたらパソコンがピストルで撃ち抜かれるような音がしたので大変驚いた。管理人さんの粋な計らいでruriさんの快気祝いのための、めでたい花火でした。歌舞伎のみえを切る時に聞こえる、床を叩くような音が楽しく鳴り続けています。リアクションの感覚まで中世風になってきたのじゃないかとこのごろ思います。引越しのこと思うだけで疲れます。


死後418年間も腐敗しなかった聖カスバートは、リンディスファーン島から修道士たちに柩を担がれて120年間移葬され続け、やっとダーラムの大聖堂に落ち着いた。
その後腐敗したのか、現在遺骸はどうなっているのか取り調べ中だ。
移葬され続けた間も聖カスバートの周辺では奇蹟が起こった。
死後の奇蹟が書かれた水島ヒロミさんの文章があると言うことで、国立図書館に問い合わせ中である。
ダーラムの聖カスバートのカトリックの神学校では、小泉八雲が学んでいた。
彼は左目の視力を失ってから、ちょくちょく生霊や死霊を見る人であった。
モンゴメリが「赤毛のアン」の中で、聖カスバートのことを書いていたり、カスバート姓を名乗る人物がいるらしいので、斜め読みしている途中。
時間のない館主の斜め読みとは、熟読したいところをじっくり味わうための苦肉の策である。
お気に入りの漫画「修道士ファルコ」(青池保子著)にも様々な奇蹟が描かれている。
修道士ファルコは枯れ草色の髪、薄青の瞳は北方の血を示し、馬上豊かな体躯は、ゲルマンの戦士を思わせる。
名高い剣客で、多くの血を流した罪を改悛して修道士になった。
聖遺骸や聖遺物を持たない修道院は人気がなく、誰も訪れなくなるので、修道院の長老たちは他の修道院にスパイの修道士を送り込み、5年~10年ががりで信用をつけ、聖遺物を盗んで来させていた。
修道士ファルコの修道院も聖処女の遺骸の指の骨を盗み、それを他の修道士から5年がかりで再び盗まれる。
修道士ファルコが追いかけて取り返した聖処女の骨を、盗賊に盗まれそうになったので、口の中に隠したのだが、間違えて飲み込んでしまう。
そんなはずはないのに、聖処女の恥じらいを修道士ファルコは感じる。
処女の恥じらいがそうさせたのだとフアルコは思うのだが、ストレスによる胃痛に見まわれたと解釈された。
猛烈な吐き気を催させる薬草で、聖処女の指の骨を吐き出すことができた。
修道院には皆からは妄想家だと思われている、聖処女のお告げが降りてくる修道士老ヤコボがいる。
「またトリップしているのか」と言われているが、いつも正気と狂気の間を行き来していて不思議な役割を果たしている。
ところが、誰もファルコが聖処女の骨を飲み込んだことを知らないのに、修道士老ヤコボが目玉を一つは右上、もう一つは真ん中に寄らせ「頭に痣のある修道士につたえよとな、聖処女が枕辺に立って、ありがとうと・・・」と修道士ファルコに伝える。
読者には腑に落ちる言葉だ。
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