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母を迎えに

山国河の流れ 守実.jpg
撮影 中島順一郎
鉄道跡地にはサイクリングロードがある。

明日の沖縄行きのために、田舎の国道を通って母を迎えに行った。
木々が覆いかぶさりそうになった寂しい国道は車もまばらだった。
雨がぱらついていたが、毎日蘇る手つかずの気高い緑色の空間の裾が、何枚も静かに翻っていた。
静かに対話する山の姫君たちの舞を垣間見ることができるのは幸せなことだ。
やがて霧がうず巻けば八尾の龍になり、雷が轟けば吠えたける山鬼になる。


こちらから声をかけなければ、時間に溶け込み、いつも何事もなく空間に存在して座禅しているような母。
見ていると、漂っている時間が今も昔も何ら変わりないことを身をもって告げてくれるようだ。
近寄って行って声をかけると、返事はあるのだが、そこに存在するはるかかなたから声が返ってくる。
母の返事は、無の世界からの木霊のような感じがする。

物語はどこからやってくるのか 幻想文学などに関する断片  西野りーあ

幻想 モローの絵.jpg
モロー

ものがたりは どこから やってくる のか ―幻想文学などに関する断片―
                              西野 りーあ

 作品に関わらなくて済む人々が世には多いのに、一方で、『書かざるを得ない』人々
がいる。書かない人が書かない事に疑問を抱かないのと同様に、『書かざるを得ない』
人は『書かざるを得ない』事に疑問を抱かない。

 とはいえ。端から見れば「何のために」と素朴な疑問が出るであろう。実際「稼げ
ているのか」、「受けの良いものを書いたらどうか」、とか「反社会的なものは書か
ない方が良いのでは」と頻繁に突っ込みが入る。
 空間からものがたりを引き出し文字に置き換える作業は、大変な重労働のはず。何
が書かしめるのか。《物語の魔》と仮称する霊的なものが、書くに適した人々をして
書かしめるのだ。
 今日、精霊やら妖精やらは、小さく可愛い(ちゃちな)イメージで流布しているが、
本来、神話伝説のように神々と人間の中間にいる、力あるものたちである。

 ある種の表現者が書かざるを得ない状況に追い込まれるのは、これらの魔のせいで
ある。「そんなぁ。魔じゃなくて、神や詩神じゃ駄目ですかぁ?」と聞かれれば。神
でもムーサでも名称は何でもいいのだ。しかし。書かざるを得ない作品は、必ずしも
真善美とは関係無い。それらは人間社会の狭い価値基準であり、地域や時代が変われ
ばたやすく変わる。
 異界の者たちには、別の視点がある。此の世は人間しかいないのではなく、人間が
此の世を造ったものでも無く、人間中心に動いている訳でもない。人間中心に考えた
いのは人間の都合であり、あるいは人間中心にしか想像しないのも人間の都合である。
 人間が現状で想像しうる真善美など、限定的なものでしかない。それらを越えた辺
りから書くことを強制する何かはやってくる。神やムーサより、魔的な力と言えよう。

 なぜなら。作品によっては、作者が社会的名誉を失ったり、命を無くしたりするこ
ともあり、それでもその作者は書かざるを得なかったからだ。

 ただし、趣味や楽しみの為に書く人たちに魔が作用するかと言えば、否であろう。
 書くことは呪術に似ている。星々が交差する時間の海の波打ち際で、祈る行為に似
ている。迷路の神殿に花の形の灯をかかげるのに似ている。発掘された異界の文書を
読み解いて、当時の人々と心を通わせる行為に似ている。夕暮れ時に聞こえる遥かな
歌声にひかれて、さまよい出るのと似ている。一時的に神隠しにあうのに似ている。
 戻った時に手にした壺には、幾編かの詩歌が入っているだろう。それらは、見知ら
ぬ誰かの霊酒となり、果物となり、餓えを癒しもするだろう。
 しかし、壺の蓋を開けたとたんに中の物は香りを放つ炎と化して、揺れ踊りつつ消
えるかもしれない。嘆くなかれ。炎を目にし、香を嗅いだなら、後は自分で書けばよ
い。
 異界は隔絶された場所にあるのではない。此の世と分離不可能に混ざり合っている
と知ったのだから

西野りーあさんのブログ「うろくずやかた」のURL  http://urokuzu.net/


月夜のうずのしゅげ記
鳥肌が立つような上記の文は、幻想詩人であり、詩誌「揺蘭」の編集人西野りーあさんの文である。
本当に私を自由にくつろがせてくれたし、身震いして襟を正すことができた。
「書くことは呪術に似ている」と言う一言には感動してしまって、びしびし来てたまらなかった。
日常と魔的な要素の入った幻想空間の間には、どっちともつかない混淆された場所がある。
そこでは人間の堪を総動員しながら、もう一つの力が満ちてくるのを積極的に無の容器になりながら待ち続けなければならない。
私の場合土笛や石笛演奏もそうである。
個人的には、肉体を消しながら、肉体以外のすべてのものになってしまいたいと願っているとも言えるだろう。
耳だけはどちらがわに向けても開いている。
ラジオ体操的で教科書を読んでいるような日常雑感は必要なものだけれども、そう言う上皮的な作品には興味がまったくわかない。




太宰府「古都の光」


古都の光ポスター.jpg
古都の光ポスター

おおまかに言うと水城跡の西門の方、刈られた秋草とおい茂った木々の生えた会場で、弥生の土笛、石笛、オカリナの演奏をすることができた。
和紙で作ったとうろうに灯がつけられ1.2キロある水城跡にあかりの道ができた。
小さなソプラノのオカリナの即興で、楽しいまつりうたを、踊りたくなりながら、きもちよく吹いた。
こんなに楽しかったことはない。
聴衆は、暗い森の水城跡に100人ほど集まったが、その人たちの影の中に、楽しみたがっている古の者たちの意志を感じた。暗闇から拍手が聞こえて来た。
現代人の体を借りて連れて来てもらっている古の人々もいるに違いない。
死者たちと共に生きている感じがした。
陰気に弔うよりも、そっくり受け入れて楽しく音を飛ばすのが魂のまつりなのだ。

明日母を連れに実家に帰った後、一緒に沖縄の糸満と恩納村、宜野湾市の親戚を訪問し墓参りもする。
しばらく投稿できないのでなんだかさみしい。

詩誌「揺蘭」ゆうらん 秋号完成

揺蘭.jpg
詩誌「揺蘭」秋号完成

—YOURAN— 2010 もくじ
【西野りーあ】
薔薇冠 2010・・・・・・・・・・・・・・・・・・・02
猫少年と情死するひとさらい・・・・・・・・・3
星図の刺青・・・・・・・・・・・・・・・・04
あるいはスフィンクス・・・・・・・6
地散り花散りライウラ散る・・・・・・・・10
夢の中の不眠症・・・・  ・    ・・・11
此の世を通過する異形の翼・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・13
【鳩宮桜城】
物語する魔—女人愛(2)・・         ・・・15
【日嘉まり子】
アリス館をさまようアリス・・・・・・・・・・・・・20
つたえさん・・・・・・・・・・・ ・・24
水縄旅館の地下墓地に棲むケルベロス(3)・・・・28
クローンたち(人間・ルナ産業勤務)・・・・・・・・・・・32
【天野清二】
深夜の舞台装置・・・・・・・・・・・36
【横山克衛】
海から・・・・・・・・・・・・38
雅歌の果て・・・・・・・・・・・・・・・・・・40
迷い船・・・・・・・・・・・・・・・42
人生のつかの間の時・・・・・・     ・・・・44   

 後書き/鳩宮桜城/天野清二・・・47
 編集後記/西野りーあ・・・47

表紙【めまいの宮居・薔薇のつるぎ】
 裏表紙【めまいの宮居・昼刻】
 コラージュ/西野りーあ

詩誌「揺蘭」の目次だけ読んでも興味をそそられるではないか。詩を書く時の名前も、自分で選んだふさわしい名を持つことができる。誰かを中心にして、その人のお眼鏡にかなうような作品しか書けないような息苦しさがない。自分自身のテーマを自分の言葉で探究できる。たとえそれが闇深いものであっても、自身の探究のために暴かなければならないものであれば、徹底的に冷徹に追及することができる。

幻想詩人の西野りーあさんが以下のような編集後記を書いているので抜粋した。
「揺蘭は『同人誌』ではなく、『個人誌の集合体』である。『同人制』ではなく『寄り合い制』なのだ。『書かざるを得ない』人の為の冊子である。表現活動は、険しい探究だ。表現活動は業病のようなものだ。趣味や職業と違い、本人の意思でやめたりはじめたりできるものではない。時間があればよいものが書ける訳でも、時間がなければ駄目というわけでもない。執筆者はその都度、参加するかどうかを決める。

お問い合わせ E-MAIL leeala@key.ocn.jp  
メールは件名に「揺蘭」と書けば膨大な迷惑メールの海から救出されます。
WEB揺蘭・過去の揺蘭情報(「うろくずやかた」内)

ねむり姫 澁澤龍彦

一輪のひがんばな.jpg
撮影 中島 順一郎

珠名姫の異母兄に幼名つむじ丸、元服してからは天竺冠者と言う者がいた。
早くから傀櫑子と関わりを持ち、やがては盗賊団となって世を荒らした。
無頼の徒が心機一転して、仏道修行に励むことはよくあったが、天竺冠者の場合は、後半生を水観法の修行にあてた。
極楽蜻蛉と尻切蜻蛉と言う童子を使役して、今や八十歳に手がとどこうとする行者は天竺冠者だった。


澁澤龍彦著 ねむり姫より
「水観法とは要するに、水や氷の清澄映徹なるを思うことによって極楽浄土の瑠璃地を観想する方法、とだけ書いておこう。」
「行者は純粋精神、純粋意識のような存在になっていた。全身が水で、ことごとく水に溶けている状態なのに、ただ意識だけがどこかで目覚めているのである。 ~略~ あえて言えば彼自身が水で、しかも同時に水を見ている意識なのである。」
「一切の区切りがなくて、部屋はそのまま外界の水に通じていた。しかし行者の意識には、もはや自己もなければ外界もなく、ただ茫漠たる水また水の世界が映っているだけだった。~略~
遠く小さな黒い点のようなものが見えだした。はて、何だろうと思う間もなく、それはぐんぐん大きくなって、その形も見分けられるようになった。それは紡錘のようなかたちのものだった。それがこちらに向かって刻一刻と近づいて来るのだった。」~略~
「舟の中には珠名姫が乗っていた。」


永遠に年をとることのない気高い珠名姫はどこに行ってしまったのだろうか。
珠名姫は何を象徴しているのだろうか。
眼前に見えなくても必ずどこかにいるのだろう。


ねむり姫 澁澤龍彦

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野いばらの実 撮影 中島 順一郎

月夜のうずのしゅげ記
今はどうなってしまったのか、確かめるすべもないが、むかしむかし14歳でふいに眠りに落ちたかと思うと目を覚まさなくなってしまった珠名姫(たまなひめ)と言うお姫様がいた。
皇子のキスで目を覚ます物語でもなく、それらしい愛を求めているのでもなく、犬に手首を喰われながらもねむりながら生き続ける姫なのだから、茫漠とした川の流れに引き込まれて、ついていかざるを得ない。

澁澤龍彦 ねむり姫 から
「珠を刻んだような小づくりな美貌の持ち主で、蒼味をおびるまでに透きとおった、ある種の貝の真珠層を思わせるような皮膚の色をしていた。しかも皮膚の下に、ほんの少しの風でも吹けば、たちまち消えてしまいそうな、小さな蝋燭のゆらめく焔があって、それが内部から貝殻の蒼みをほんのり明るませているといったふぜいである。」

月夜おうずのしゅげ記
珠名姫(たまなひめ)が死んだように眠りに落ちてしまってからは、四方輿に姫の柩を乗せ、洛中洛外の寺々を3年もの間巡行したが一向に目覚めるふうはなかった。
実朝が殺されて源氏が滅び、北条氏が現れ、蒙古の使者が九州の太宰府に来たりしたが、もうその頃になると珠名姫(たまなひめ)を知っている者は誰もいなくなっていた。
珠名姫(たまなひめ)をあずかっていた僧もなにやかやとたてられる噂に困り果ててしまい、姫の柩を川に流すことにした。
姫が小舟に乗せられて川を下って行くところが、本当に静かに神秘的な美しさで描かれているので、今回はそれを書きうつして見ることにした。喜悦である。悲しく哀れで美しいオフェリアにも通じるところがある。


澁澤龍彦  ねむり姫 から
「小舟はしばらく旅に出るのをいやがるかのようにしばらく葦間にたゆたっていたが、やがて一転してゆるゆると川面をすべりだした。 ~略~
小舟は流れ流れて、川面の霧の中をくぐり抜けたり、よどんだ葦間の淵に一進一退したり、風雨に打たれたり、不意の水しぶきを浴びたりしながら、それでもどうやら沈みもせずに、緩慢な動きで下流へ向かって漂っていた。茫々漠々たる水の旅であり、ついには小舟そのものも水の一部と化してしまうかと思われるほどの、水また水の旅であった。舟の中の姫にもし意識があったとすれば、煙波模糊たる無限の水のなかに分け入ったのかと錯覚されたことであろう。
やがて小舟は、なにものかに否応なく吸い寄せられていくように、紡錘(つむ)のような舳先を微妙にふるわせながら、次第に速度をはやめて水の上をすべり出した。」


珠名姫(たまなひめ)の異母兄である天竺冠者(行者)との再会や、興味深い水思観については後日書くことにする。
~~つづく~~

吸血鬼、愛の伝染病 澁澤龍彦

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撮影 中島順一郎

ずいぶん前にDVDを借りて来て「吸血鬼ノスフェラトゥ」を見た時は、ねっとりと引っ張り込まれるような陰湿な怖さと言うよりも、コミカルに変化した恐ろしい事件が麻疹にかかったように通過していくような感じを受けた。
壁に映る吸血鬼ノスフェラトゥの長い影と、両脇に垂れた長い腕の先の指先の湾曲した爪が、ブラムス・ストーカーの原作をもとにしている映画のシーンの怖さを引き立てた。
吸血鬼ノスフェラトゥがあらわれる場所には、ペストと吸血が蔓延する。

澁澤龍彦 映画論集成から
「ペストと同じように、吸血鬼と言うのも一種の伝染病と考えることができる。もし吸血鬼が無垢の男なり女なりにキスをすれば、その男なり女なりもたちまち吸血鬼と化して、吸血鬼現象はどんどん蔓延するからである。~略
~永遠に放浪をつづけ、人類社会を吸血鬼の共同体たらしめようとするノスフェラトゥは、もしかするとエイズの病原体の擬人化とも考えられるであろう。」
「精神分析では、ドラキュラは「恐ろしい父」の象徴的なイメージと言うことになっているが、この映画の中で、ハーカー夫妻の間に割り込んで来て、夫とも妻とも性的関係をもつかのように見えるドラキュラは、やはり私には、きわめて今日的な性的混淆の象徴のように思われてならなかった。」


映画や詩や小説などが、未来に起こることを予言すると言うことだろう。
すべての科学的データを集めてその中からはっきりしたものが導き出されて来ることもあろうが、物語の中を歩いているうちに直感的にもたらされて来るものもあると思う。

父子嶋 ててこじま

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父子嶋

9月25日夕方から催される「太宰府 古都の光」で古代笛とオカリナを演奏するために太宰府の西側を担当しているSさんやKさんと水城跡の演奏予定地などを午前中に見て回った。
70歳代の彼らは快活で気さくな人たちで、歴史的なことに関しては生き字引だ。

663年、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた倭は、百済の亡命貴族を伴い退却した。
防戦のためにまず664年から水城の堤防をかなり急いで作りはじめた。
水城の堤防は、敵の侵入経路である筑紫平野の最も狭くなったところに作られていて、堤の水深は4メートル幅60メートル、堤防の高さは18メートルあった。
Sさんは水城の堤防の伝説が残っていて、今は蕎麦とつくね芋の畑になっている父子嶋(ててこじま)の土地の持ち主で、水城跡の西門まで案内してくれた。西門には武器庫もあったそうだ。
西門から伸びた官道はまっすぐに鴻臚館(こうろかん)に行きつく。

水城跡散策路.jpg
水城跡

教室以外の演奏は昔から、古代めいた衣装をつけて1人でやっている。
よほど気の合う奏者同志でなければ音が合わずに衰退したり、勝ちあって乱れるので共演は今のところはやっていない。
こちらが即興で相手に合わせるにしても、古の地で古代へ思いを馳せ、時空を超えて音を生み出してゆくことに没頭するとなると、お互いに気持ちを合わせるのがなかなか難しい。
何でもいいから楽譜どうりにやって時間どうりに終わればよいわけではないのだ。
1人で演奏するのであれば、こちらに移ってくるエネルギーの主を初めから予想はできるし、何が来ているか分る時は来るが、共演の場合は、外観で相手に入り込んで来ているものを察することができなくてはならない。

恐怖映画への誘い 澁澤龍彦

咲き誇る大きな真紅の薔薇.jpg
撮影 中島 順一郎

澁澤氏の映画論集成を読むと、映画の「吸血鬼ドラキュラ」の中のシーンで最もショックを受けた場面が2つほど書かれている。私も同じ個所に戦慄を覚えていたので書き出してみることにした。

澁澤龍彦 「恐怖映画への誘い」から
「ドラキュラに誘惑されて吸血鬼になった若い女の胸に教授がクサビを打ちこむと、血がほとばしって、女は恐ろしい苦痛の叫び声とともに、たちまち皺だらけの醜い老婆に一変してしまうという、あわれというも悲惨なシーンであった。」


月夜のうずのしゅげ記
浄瑠璃人形がカッと口をあけて鬼女になるのや、渡邊の綱に腕を取りもどしに来た鬼の老婆、行燈の油を舐めているところを女中に見つかって、「み~た~な~」と言って化け猫になる老婆、よもつひらさかを下って夫を追いかけてくる黄泉の国に行った妻の神話(古事記)などにも、なぜこんな無残な姿にまでにならなければならなかったのかと言う哀れさを感じる。
彼女たちがそうなった原因を探ると、たいてい悲しい原因やなりゆきがあって同情を禁じ得ない。
女吸血鬼の場合は、日本的な湿気がなく、からりとした吸血の欲望だけが感じられるが、吸血鬼になる前のすこやかな彼女たちの生活を思うと哀れである。


澁澤龍彦 「恐怖映画への誘い」から
「城の中で追いつめられたドラキュラが、十字架と朝の光に抗し切れず、みるみるその肉体をぼろぼろに崩壊せしめ、ついに灰塵に化して風に散ってしまうシーン」


月夜のうずのしゅげ記
毒々しかった吸血鬼が灰となって風に舞いどこへか消えてしまうところには、時の移ろいとものの哀れさを感じる。
何百年かたった後、吸血鬼の灰塵が血を吸って蘇ったと言う映画もあったと記憶している。
私自身もう一つぞくぞくするシーンがある。ドラキュラが城の壁を這い降りて行き、狩りを済ませた後、また壁を這い上って来るおぞましいシーンである。


~~つづく~~

空前絶後のこわい映画  澁澤龍彦映画論集成

幻想的なひがんばな.jpg
撮影 中島 順一郎

第1章の「怪奇と恐怖」の目次には、本当に知りたかったことが9つ並んでいる。もっと早く気付けばよかった。
目次
「恐怖映画への誘い」「ドラキュラはなぜこわい?恐怖についての私論」「吸血鬼、愛の伝染病」「怪奇映画の季節 ドラキュラの夢よいまいずこ」「エクソシストあるいは映画憑きと映画祓い」「ショックについて」「仮面について 現代ミステリー映画論」「空前絶後のこわい映画」「ホラーの夏 お化けの夏」
一気に読んだ。著者と同じところに大真面目に関心を抱いていたり、感銘を受けたりしていたので大変うれしかった。

澁澤龍彦著 「ドラキュラはなぜこわい?」から
ユングによれば、恐怖は、はるかな過去の無意識的記憶である。略
スクリーンの上に生きて動き出すようになった吸血鬼も、フランケンシュタインも、狼男も、ゴジラのごとき巨大な怪獣も、すべて非合理的であるがゆえに現実的な、古くてしかも新しい、人類の強迫観念の視覚化に他ならなかった。
ドラキュラはなぜこわいのか、この答えは簡単である。もっとも本質的な恐怖は死の恐怖だからである。死を忌むべきもの、危険なものと見なした古代人にとってこれ以上の恐怖は考えられなかったであろう。

~~続く~~

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