So-net無料ブログ作成
検索選択

映画 マザーウォーター

池の開放感のある紅葉の木.jpg
撮影 中島順一郎

京都の川が流れている庶民的な界隈。
もたいまさこ(散歩する人・マコト)のおおらかな雰囲気の中にもきりりとした一面が含まれている呼びかけ「きょうも機嫌よくやんなさいよ」が何回も出て来てとっても面白く、元気づけられた。
昨今失われているユーモアがその言い回しにはたっぷり込められている。
マコトは、商店で食材を買い、のんびりほかほかしたお料理を作る時間を経て、1人の食事で「いただきます」を言って美味しそうに食べる。
ほんわかした独り言のような呼びかけの中にきりっとした感想と助言が混じっているのを見逃してはなるまい。
人生を楽しんで味わいつくそうとしている。
みんなの中心となっている8ヶ月~10か月くらいの赤ん坊のポプラと、ムードメーカーのもたいまさこ以外にものんびりとしたおもしろい人たちがいる。
みんなそれぞれ結婚していたのかいないのか分からないが、現在は独身である。
赤ん坊のポプラは今は独り身の銭湯を経営する男主人が面倒を見ているのだが、彼の子供かどうかわからない。
ポプラはみんなの赤ん坊のように可愛がられ、手の空いている人が抱いている。
映画の題名マザーウォーターは、ウイスキーの仕込み水に使われる水のこと。
ウイスキーしか出さないバーを営むセツコ、コーヒー店を営むタカコ、豆腐屋を営むハツミはそれぞれ1人で店を切り盛りしている。
女性3人とも芯で水を感じている。
流れるままに適当であり自由である。
水割りを作る手、コーヒーを入れる手、お豆腐を切る手のそれぞれ水を扱う手が、その美しさについ見とれてしまうほど繊細で優雅だ。
お豆腐屋には、縁台が置いてあってそこに座って食べて行くこともできるので話がはずむ。
相手が言い出さない限り、話の中にづかづかと土足で踏み込んでいくような人はいない。

「かもめ食堂」はヘルシンキ、「メガネ」は与論島、「プール」(大森美香監督)はチェンマイ、今回の「マザーウォ―ター」は京都での様々な境遇を経て生きている人たちの物語である。
今回の「マザーウォーター」の監督は、萩上直子監督ではなく、松本佳奈監督。
監督は違うがプロジェクトチームが同じだそうだ。
お互いを気にかけながらもうるさく立ち入ることはせず、縁あって寄り集まれる時間を大事にする生き方は、これからの人々の交流の在り方を示唆している。


一つだけいつも感じることがある。
地球上どこへ行くにも運賃と滞在費がいる。
そこに居ついて暮らすことになり、その土地で店を開くとなると経済的なもとでと保証人が必要になる。
ある程度の資金を持っている人となると限られて来る。
人脈なしではやって行けるかもしれないが、文なしでは適当にはやって行けない。
登場人物たちは、何の縁で店を開くことができ、どこからそのお金を得ているのだろう。
お初の筍の量り売りが八百屋で900円だとまで分かる映画なのに、彼や彼女たちの経済状態が全く見えてこない映画だ。

絵本 おじいさんの旅

白い洗面台と野菊とスタンドの部屋.jpg
イメージ写真 撮影 中島順一郎

作・絵  アレン・セイ (1939~) ほるぷ出版
横浜生まれの日系アメリカ人。オレゴン州ポートランド在住

絵本「おじいさんの旅」のことを思い出した。
明治時代に渡米し再び帰国した作者の祖父の2つの国への思いを描いた物語。
アメリカにいれば日本が恋しく、日本にいればアメリカが恋しくなる。
せつないほどの透明感溢れる郷愁。

朝暗いうちに川横の道を歩いていると、緑色の線のようなおじいさんが1人川に向かってパンくずを投げていた。
大きな川鮒がおじいさんの下に群をなして集まっていた。
(これがサメだったら怖い)
1羽の白鷺と鴨たちがおじいさんの様子をうかがい、鳩がおじいさんの手から直にパンをついばんでいた。
鯉と白鷺と鳩がおじいさんの指揮する手の動きで、ナイーブに動いていて素晴らしかった。
おじいさん版のドリトル先生だ。
おじいさんの横を静かに通る時、おじいさんのやさしさが伝わってきた。
どんな生涯を送られてきたのだろうと思った。


(海外に逃げたゲシュタポが普通に家族を持ち安定した優しい人として暮らしていたと言う驚くべき話や、映画「羊たちの沈黙」「ハンニバル」「レッド・ドラゴン」のなかの、頭脳明晰で紳士の一面を持つ、猟奇的殺人者のハンニバル・レクター博士は稀なことである)

沖縄の母の従弟2人や従妹の主人のおじいさんに墓参りの小旅行で親切にしてもらい、私のおじいさんアレルギーがなくなった。
尊意が持てるようになった。
それまではおじいさんからわけのわからない因縁をふっかけられ邪険に扱われるか、言いたい放題言いまわされ馬鹿にされるか、無視されるばかりで、おじいさんに対してはよい印象を持っていなかった。
おじいさんが自分を誇るために、背後に立てたクジャクの羽根は滑稽ですらあった。

<お知らせ>読んでね!!
コメントをいただいてもすぐにそれが表示されなかったのは、コメント受付が「承認後表示」になっていたからです。ごめんなさい。
現在はコメントはすべてすぐに受付表示されます。
木戸銭がわりにひとことコメントください。ナイスクリックもうれしいものです。思いっきり楽しめるといいですね。


神尾家

河川敷と青い空 守実.jpg
神尾家の近くを流れる山国川 撮影 中島順一郎

神尾家には九州最古の茅葺き民家である。 曲がり寄棟造り (1771年)。
同級生女の子がいたので、時々遊びに行った。
炒ったあられやぎんなん、干芋の焼いたのを貰って食べた。
文化財として有名になっていなかったその頃は、まだ人が住んでいて、土間は広く牛がいて、雨戸をあけない部屋は暗くしんとして不思議な黒の世界が鎮まっていた。
美容師をされていたお母さんと2人で神尾みっちゃんがO市へ引っ越して行ってから1度も会っていない。
父の実家は神尾家のあるところよりももっと奥の山の中にある。
そこら辺りは、冬になると道路が雪に埋まってしまい、夜は車が一切通らなかった。
降ってくる雪は静かな音を立てて積もった。
何億もの雪のひらが積もる音が聞こえて来た。
その時の静けさは私の中にしまってある。
絵や音楽小説などの中に同質の響き合いが感じられれば呼び合う。
呼び醒ますものさえあれば取り出して響き合うこともできる。
1メートルもあるようなつららが崖に下がり、それをちぎってかりかり食べるのが楽しみだった。
自分の中味にも透明感を持ちたいと言う憧れがあった。
水が落ちてくる崖の下には、小さな溝があり、その中には水に磨かれた小石や水晶のかけらがあった。
春になれば沢蟹が沢山行き来し、カワセミも沢山いた。
賢治の「やまなし」の情景がそこにはあった。


思い浮かぶことなど

電車の窓から外を眺めていると、林の中の木々に赤く熟れた烏瓜が、50年前と同じように何事もなかったように同じ風情でつり下がっている。
烏瓜を美しいと思ったのは子供の頃、中を開き大黒様にそっくりな実を取り出し、洗って干してお守りとして財布に入れておいたものだ。
秋はものを思う心が時間空間をゆっくり跳び廻る。
本物の烏瓜を見ると、実体験した思い出とその周辺の断片しか寄ってこない。
ほんものの烏瓜とは存在の仕方が違うが、高島野十郎の絵の烏瓜ほど静寂で崇高なものを見たことがない。
ひときわ研ぎ澄まされて美しい。


踊り関係で言うと、現在は舞踏に心を動かされる。
客席の後ろから気配を殺して静かに現れる場合の舞踏を見たことがある。
また舞台の横から死者のように影薄く現れる場合もある。
舞踏家の笠井さんは何事かを検証するようにすっすと歩き、崖から飛び降りて転げ回り、駆け登る。
舞踏家の原田さんは未知の闇の海に向けてダイブする。
ものすごく深い緊張感で空間を斬りこんで来る。
原田さん以外の若い人には、豊かな力は感じられるが、緊迫感においては大人と子供である。
生き抜いてきた人生の向き合い方と本人の捉え方が違うのだろう。
私は追いつめ追いつめられてゆく瀬戸際感を共有したくて、舞踏の場を訪れる。
行き着く先は地獄と天国のいずれかではなく、絢爛たる揺さぶりをかけられた浄化の地である。

即興舞踏家

舞踏 原田.jpg

西鉄福岡駅内で即興舞踏家の原田さんを見かけたのでしばらくお話した。
普段は本当に話しやすい人で、相手の中の根源的なものをジャンルを超えて育てる人だ。
のこの島の土笛、石笛コンサートの時に3日間共演していただいたことを思い出した。
花嫁衣装や素敵なピエロのような衣装には鈴がつけられていた。
原田さんの舞踏に対する考えと、私の詩作、石と土の笛の即興演奏についての考えには共通するものがある。

原田伸雄さんの言葉
即興舞踏は振付がなく、組み立てながら破壊してゆく。
舞踏は精神の芸術。本番へ向けて精神を研ぎ澄ませることは不可欠である。
筋肉を鍛えたり、肉体的な訓練はしない。ありのままの肉体を使う。
常日頃から、人の言葉に耳をすませ、風景を感じ取り、自分を客観的に観察する。
芝居から舞踏へ転身したきっかけは、舞踏家の笠井叡さんの舞台「丘の麓」を見て、劇薬のような混沌に強くひきつけられたから。
人間存在の深いところに斬りつけてくる力を感じた。
肉体と言う溶鉱炉に言葉を投げ込んでぎりぎりのところで再生してくる言葉をつかみたかった。
舞踏を言葉との戦いだと考えている。美しい肉体やテクニックはおまけの要素にすぎない。

ある時、踊りの半ばで、無性に踊ることや死ぬことが恐くなり「恐いよう 恐いよう」と心の中で叫んだ。
思わず子守唄のようなものが口を突いて出てきた。
窮地から抜け出ることができたのは、左肩の上に瘤のように付けていた鈴の塊のおかげ。
鈴の塊が、赤ん坊に変身して、あの瞬間わたしが母でもあることに気づかせてくれた。
鬼子母神に化したかと思うと、次は荒ぶる閻魔になっていた。

生命の堆積の始原にまで遡り、更には全き沈黙に包まれた物質の意識にまで迫ることができるかどうか。
思考と肉体の全感覚および、霊感のようなものも総動員した未知の物質の生成を目論む化学実験のような行為である舞踏のさ中で、常にそんな関心に捕えられている。










朝の散歩開始

か弱い蓮花.jpg
蓮花 撮影 中島順一郎

3か月ぶりに朝歩きをした。体が重い。
ブログの誤字や文の手直しはその日のうちにやってしまいたい。
書くことで煮詰まってゆくものの再確認、宝石の発掘作業、日常の方向の立て直しをはかっている。
7月末の転居や、お盆や沖縄行きの休みを取るために、教室の振り替え日を延々とこなしたのが体にこたえている。
訪問コンサートや12月のコンサートの準備などが重なってスタミナを補充しても、補充してもおっつかなかった。
体力を取り戻すのに2週間かかった。
徐々に回復して行く浮遊感と着地感を交互に何回も味わうことができた。

これまでは気がつかなかったが、裏道に桑の木を発見した。
川べりには一面のすすき、自然薯の黄色い葉も茂っていた。
紫色の萩の花が道にこぼれ散っていた。
花々から発散されるエキスが幻覚を見せてくれるのか、朝もやの中で花々をじっと見つめていると、妖精(日本的に言えばやおよろずの神々)の姿が浮かぶ。
花だけではなく、よりしろとしてのものに対しても、人格化されたものの姿が浮かぶ。
こういうことに対して、永久にファンタジーとは無関係な者から、「噓を言うな」と小賢しく馬鹿にされたことがある。
その人には想像できない、見えない、聞こえないからと言って、そう言うものがこの世にないものとは断定できない。

「高丘親王航海記より」 澁澤龍彦

満開の桜の一本.jpg
撮影 中島 順一郎

当時67歳の高丘親王は舟で天竺に向かっていた。
水の上を舟が行きつくところまで追ってゆく描写において澁澤龍彦ほどの文の美しさを体験したことがない。
今回はそれはさておき、高丘親王が天竺に向かう因になった、父の平城帝の寵姫であった藤原薬子(ふじわらのくすこ)との交流を見て行くことにする。
藤原薬子のやることなすことは、どんなきわどい行為におよんでも媚や不潔さをみじんも感じさせなかった。
薬子は毒物学のスペシャリストでもあったので、トリカブトから採取した毒をあおって自死する。
高丘親王は長じて出家したが、30歳以上も年の違う薬子は彼の永遠の恋人となった。



「高丘親王航海記より」 澁澤龍彦 から

「~略わたしはかならずしも死ぬことを怖れてはいないのですよ。三界四世に輪廻して、わたし、次に生れてくるときは、もう人間は飽きたから、ぜひとも卵生したいと思っているのです。」「卵生。」
「そう鳥みたいに蛇みたいに生まれるの。面白いでしょう。」
そういうと薬子はつと立ちあがって、枕もとの御厨子棚から何か光るものを手にとるや、それを暗い庭に向かって放り投げて、うたうように
「そうれ天竺までとんでいけ。」
その不思議なふるまいに、親王は好奇心いっぱいの目を輝かせて、
「なに、なにを投げたの。ねえ、教えて。」薬子はこともなげに笑って、
「あれがここから天竺まで飛んで行って、森の中で五十年ばかり月の光にあたためられると、その中からわたしが鳥になってうまれてくるのです。」
「でも、あの光るものは何だったの。薬子が投げた光るものは」
「さあ、何でしょうか。わたしの未生の卵とでも申せばよいのでしょうか。それとも薬子の卵だから薬玉と呼びましょうか。何と呼んだらよいかわからないようなもの。世の中にはね、みこ、そういうものがあるのよ。」
 親王の記憶には、この時の薬子のすがたが影絵のように、いつまでも消えないで焼きつけられた。簀(すのこ)に立って、月の光を浴びながら、何か光る小さなものを庭に向かって投げている女の姿。その小さな光るものがなんだかわからないだけに、記憶の中のイメージはいよいよ神秘の光りをはなって、歳月とともに宝石のように磨きぬかれてゆくかのごとくであった。はたしてそんなことがあったのかだろうか、あれは記憶の錯誤ではあるまいかと、後年におよんで、その事実を疑いたいような気持になることすらあった。しかし、やっぱりあったと考えなければならぬのだろう。」
~略~まさか事実のなにもないところから、こんなにはっきりしたイメージだけが浮かび上がってくるはずはあるまいと、親王はそのたびに思ったものである。


このような藤原薬子との思い出が、高丘親王を60年もの長い間突き動かしていたのである。
死んだ藤原薬子ともう一度何かの形で会いたいとの強い思いがあったのである。
人間のわけのわからない行動は、よきにつけあしきにつけ幼いころの体験によるところが大きい。
「何と呼んだらよいかわからないようなもの」「ファンタジーとしか呼べないもの」に近寄り、密かに一体化して名前をつけ、物語するのが幻想詩人だ。

牡丹鍋(いのしし)

紅葉のカーテン.jpg
撮影 中島順一郎

佐賀の多久市に住んで、みかん山で完熟みかんを作っている知人(ご夫妻とも教室生)が、11月7日の祭りで猪汁を300人にふるまうそうだ。
毎日のように猪が現れ、もう30頭を仕留めたそうだ。
解体作業もご主人がやっている。
3台ある冷蔵庫の中に猪肉がどっさり入っているそうだ。
「いるなら猪肉、さしあげげますよ」と言われたので、今年の冬は牡丹鍋をしてみようと思う。
それはそうと昨年はよかったのに、今年はみかんの出来がよくないらしい。
来年はみかん狩りとコンサートをみんなでやろうなどと、合奏の練習の合間に楽しい計画を話し合った。

同姓同名

青空と蓮の花.jpg
撮影 中島順一郎

3年ほど前、亡くなる直前の父に、赤ちゃんの時に2週間生きていて亡くなった兄の位牌を、漆塗りで作って欲しいと頼まれた。
業者に頼んで名前を入れてもらい父に渡したらとても喜んだ。
寄せ墓をする時に、兄の小さなお墓を掘ってみたけれど、土葬だったので、もうすべて土になっていて、何も出て来なかった。
家を継いだ叔父に墓を引き取ってくれと言われたので、ブルトーザーで壊した墓のあたりから、土中の黄色い小石を3つ拾って帰った。
生きていたという記念に現在は、お寺の納骨堂に父と一緒に納めてある。
亡くなった人々は、50年もたたないうちに、思い返す人もなく忘れられてゆくことだろうが、寺には過去帳というものが存在しているので名前は残っている。
そう言う意味でその人につけられた名前は大事なものだ。
わたしは、墓の塵や土は苦手で、背筋が寒くなり、風邪のような症状が現われすぐにダウンしてしまう。


父が亡くなった後か、兄の位牌を納めた後か、同時進行だったか忘れたが、同じ時に兄と同姓同名の、兄が生きていたら同じ年格好の男性が教室に生徒として3か月ほど現れた。
このようなぴったりの時期に起こったことに対して、なるほどなと感謝しながら納得し、ほほえんでしまった。
「赤ちゃんの時に亡くなったお兄さん、あなたのことはけっして忘れようがないよ」と思った。
死者たちとともに生きるとはこのことであろう。


森の陽だまり

青いもみじ.jpg
撮影 中島順一郎

「わたしなんだか死なない気がするんです」という宇野千代さんが言った言葉が、品を変えところを変えて、最近よく映画テレビの台詞で使われているのに驚かされる。
世間の人や脚本家が、ひきつけられた言葉だからだろう。


「一粒の種」著者辻厚治(哲学者・若いころ学生運動をやっていたことがある。個人的には、数少ない尊敬できる人だと思っている)と言う本には、息子さんを生後10日で亡くした氏の不思議な体験が載っている。
「少し薄暗くなってきた木立ちのあいだの道を通っていたときのことです。片側の斜面に生えている大きな椎の木の小枝が密集している地上3メートルくらいのところに、ふっとしかも青年の上半身が覗くように現れたのです。その瞬間私には、それが死んだ森人(息子さんの名前)だと直感的にわかりました。生まれて10日で死んだ子供が、成長して姿を現すなんて常識的にはありえないことです。でもその時の私には、何の疑問も抱くことなくそう思えたのです。「忘れないでね。ちゃんと元気にしているよ」といった、いたずらっぽい顔つきをしてすっと消えた。このことを家について妻に話すと、彼女の目からどっと涙があふれた。」

~つづく~