So-net無料ブログ作成
検索選択

ジュリア・ロバーツ 「食べて 祈って 恋をして」 [映画]

「食べて 祈って 恋をして」は題名に自堕落さと軽さを感じていたために、見ないでおこうとした映画なのだが、食料を買いに出なければならないので、日本人にはないジュリア・ロバーツの美しさを見に行ってみようという気になった。
この映画は、切り替わりの早い自分探しの観光映画ではなく、神は自分の中に見出せというメッセージに行きつく映画だった。
それはどういうことなのかという疑問が出てくるのだが、現在の出会いから逃げずに、大事に力を尽くせと言うことだった。
ニューヨークのジャーナリストである女性が、離婚恋人との別れを体験し、イタリア、インド、バリ島に心を癒す旅に出る。
イタリアでは太ることを気にせず食べまくり、インドでは瞑想とヨガ、バリ島では薬物療法と手相を見てもらうことで癒されると言うお膳立てなのだが、彼女が乗っていた自転車に車がぶつかり、そこで車を運転していた1人暮らしの無精髭のくたびれた中年男性(バビエル・バルデム)に出会う。
弱さを見せあって理解し合あい、相性はいいのだが、お互い住む場所が違うので、遠距離の通い婚生活になりそうである。
2人のきずなを強めるため、無人島で2週間2人だけで暮らすと言うところまで何とかたどり着く所で映画は終了する。
バリ島での具体的な、なまなましさは、あまりにも男女が近づきすぎた蜜月生活の中で、彼女が膀胱炎になるところである。普通映画ではそんなところまで具体的には見せない。
もう一つは、彼女が手相を見てもらうおじいさんは彼女に好意的で親切なのだが、奥さんなのかいちいち、けんもほろろな意地悪に聞こえる受け答えをするおばさんがいたことだ。
おばさんにとっては彼女は特別でも何でもなく、単なるお客にすぎないのだから仕方がないが。



今年一番の雪 [エッセイ風]

360度の山々が雪化粧をしている景観を6階の住居から見るのは初めてだ。
粉雪が何枚もの帯のように空を移動してゆくのが見える。
子供のころ山村に育っていて、雪の山をいつも1人であるいていた。
静まり返った林や森の中で、赤い冬イチゴや藪こうじの実を見つけ、木がこすれ合う音や鳥たちの声を聞いた。
風が吹いて葉に積もった雪が舞い上がり、あたりを白く煙らす風景は、静謐であった。
東西南北の4隅に、長い裾を静かに垂らして祈っている山の女性がいるような気配がした。
雪がやんだぴかぴかの紺色の夜の空に月が浮かんだ夜、弟と2人で風呂の中から雪が覆いかぶさった畑に飛び出して走り回り、寒くなるとまた風呂に入った。





映画  「羊たちの沈黙」 [映画]

患者の人肉を食べた罪で、7年間の独房生活を送っている元精神科医のレクター博士と、不幸な生い立ちを送りFBIの訓練生になった美しい女性クラリスが厚いガラス戸ごしに異様な交渉を続ける。
クラリスは、若い女性が何人も殺される連続猟奇事件が起こって解決がつかないため、天才的な元精神科医だったレクター博士に、助言と犯人に対する心当たりをさぐり出すために、FBIから派遣されたのである。
レクター博士は、クラリスの生い立ちを聞くことを交渉の交換条件とする。
連続猟奇事件の犯人の心理的状態の解明を、レクター博士以外のFBIの精神科医や心理学の権威である捜査官もやって見るがうまくいかない。
レクター博士を独房に訪問した精神科医の1本のシャ-プペンシルをいつの間にかレクター博士が盗んで隠し持ち、それを凶器として警官たちを惨殺して逃亡する。
レクター博士からすれば、連続猟奇事件の犯人など異常者のまねごとをしている者としかうつらない。

レクター博士が登場する映画の1作目が「羊たちの沈黙」、2作目「レッドドラゴン」、3作目「ハンニバル・レクター」。異様な奇妙な感覚に囚われるので、よほど腹を据えてみないといけない。
レクター博士の悲惨な子ども時代から青年までを「ハンニバル・ライジング」でギャスパー・ウリエルが演じている。
ギャスパー・ウリエルは最近の映画「約束の葡萄畑」で美しい堕天使になっている。頬に入った彫の深い影が役柄を広げている。










絶望スパゲッティ [エッセイ風]

JRで2時間半かけて一人住まいの母を訪ね、予防注射美容院に連れて行き、食事をし、母に今風のコートセーターを買い、昔話をたっぷりしてきた。
一人暮らしをしていた人が一人暮らしが無理になり、入居している施設がちかくにあるが、そこに入りたいそうである。
強い人である。疲れて睡眠をとることで解決し、新しい朝を迎え、ただ生き抜いてきた人である。

帰りに一人でイタリア料理店に入って見た。
メニューを見ると、絶望スパゲッティと言うのがあった。
イワシと香味野菜で味付けは辛く濃く、個々がそれぞれを主張していて面白く、美味しかった。
味にあぶりだされてくる絶望が、食欲を駆り立てる。
「まだ絶望できる希望があるじゃあないか」と誰かが言っていたのを思い出した。
絶望スパゲッティは名前の付け方に遊びがあって楽しめた。




後を追って

124 - コピー.JPG
撮影 ミスターS  
70年前に沖縄の糸満市で、母が、母の祖父母や結核の叔母といっしょに住んでいた場所を探しに行ったが、分からなくなってしまっていた。


冬。白い雪、白い息、白い帽子
白いものを見ると、しみじみとする。
わかれと言うものは必ず訪れる。
いつの間にかこんなに年を重ねて、同じ年の男性や女性が、白髪の混ざった髪で現れるのを見ると、時々愕然とする。
戦争の中で生き、貧しいなかで子供を亡くし、魂がちぎられ、ある面、回復しなかったたままの、見て見ぬふりしかできなかった日々。白い帽子をかぶった母は、何事があっても堂々としている。







雪景色

中心に南天の実.jpg
撮影 中島順一郎

昨夜からぼたん雪が積もり始めていたが、今朝は粉雪が舞っている。
山肌や屋根が雪に白く塗りこめられて固まっているようだ。
昨日は降る雪の中を年賀状を出しに行ったが、それから久しぶりに閉塞感を感じるようになった。
遠い山を見ていると、亡くなって行った曾祖父母や祖父母や父や叔母や叔父や幼馴染の人たちとの言葉の足りなかった交流への後悔と、それに続く現在の空虚感が私の中から私を茫漠ととり囲む。
人とのつながりの温かさを生活の中心に置いている人間は、それが無くなった時には自分の立つ場所が分からなくなるだろう。
そうでない人間は、ぬるま湯につかる時と雪原を歩く時を交互に繰り返しながら過ごしている。
自分を動かしている今の問題をめり込むくらいに重く抱えて、意識しながら、考えないようにするのではなく、笑える位とことん突き詰めて、できることは何でもやって見るのもいいことだ。
問題は無くならないがひょいと明るい窓から光が射すことがあり、向かえる勇気が湧き、後押ししてくれることがある。


マンガ狂につける薬 二天一流篇  呉 智英(5) [本]

動物を殺す根本的罪悪
「世界屠畜紀行」内澤旬子 解放出版
「2匹は訴える」(少年マガジン)1970年1月4日号所収 旭丘光志 講談社

[マンガ狂につける薬]
と言う本では、今まで考えの道筋さえ立てられなかった屠殺のことが、言葉を屠畜と変えて書かれている。
どちらも牛や馬や豚や羊や犬が殺されることである。
殺されるものがいると言うことは殺す者がいると言うことである。殺す人は屠畜業を営む人である。
屠畜業を営んでいる人がいるから美味しい肉が食べられるのだけれど、そのことは忘れ去っていることが多い。何日か前に、「たん塩焼き定食」を美味しくいただいた時にも、ただ満足しただけだった。人に頼んで動物を殺してもらって食べる時にいちいち罪悪を感じていたら食べられるものではない。殺される動物の方に感情移入していると、現場で働く殺す方の人を平気でなじって、突き刺す言葉を簡単に吐くようになってしまう。どうすればいいのだろうか。これはある人にとっては宿業である。
職業に関しては呉 智英氏は、「あこがれの職業がある半面、喜ばれない職業もある。職業差別がいけないと単純声高に主張する人々がいるが、それなら特定の職業に憧れることも強く弾劾すべきだろう。」と言っている。

呉 智英
「彼らの悲鳴が聞こえないのか、彼らの苦痛が分からないのか、という道徳的な批判が生じる。これに対して、でも、お前も肉を食い、皮革を利用するじゃないか、という反論もあるが、これが有効なのは、現にそうしている人に対してだけだ。菜食主義者にはそんな反論は全く通用しない。」


職業差別をせず、職人技に敬意を持ち、自分の代わりになまなましい屠畜をしてくれる人にいつも感謝しながら肉をいただくことが毎回できたらいいのだが。
平安時代の治安を守ってくれる検非違使に対しても、人の命を殺め血を見る職業なので、助けられているのにもかかわらず、なにもしない貴族連中からは下賤のものと言われ蔑まれていたと聞く。そんな理不尽なことがあるのだ。





マンガ狂につける薬 二天一流篇  呉 智英 (4) [本]

『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』新井英樹 インターブレインビームC
『排蘆小舟 ・石上私淑言』本居宣長/著 子安宣邦/校注 岩波文庫


「マンガ狂につける薬 二天一流篇」呉 智英著は、マンガと小説を2冊~3冊ほど組み合わせた案内書である。
組み合わさることで、それぞれの持ち味が生き、今まで気づかなかった深みが見えてくる。~下手物どうしを組み合わせるそこにちょっと薬味をくわえると、あくの強さが一変、深い滋味が現れてくることもある。」と著者は言われる。
マンガ「真説 ザ・ワールド・イズ・マイン」を読んだことがないので解らないのだが、呉 智英氏の案内書を読んで想像してみるととっても欲しくなる本である。
手製爆弾の実験をしているテロリストのモンちゃんとトシは、日本を北上し、巨大怪獣ヒグマドンは津軽海峡を北海道から青森に向かって南下中である。3人は秋田で出会う。
テロリスト2人のバイオレンスの意味も、巨大怪獣ヒグマドンの出現の意味も解らない。
幸か不幸か連載中に有害漫画指定や成人指定にならなかったのは、おそらくテーマが難解だったので社会に悪影響を与えることがなかったからだろうと、呉 智英氏はおしゃっている。


呉 智英
「表現の自由、芸術の自由を論ずる時、人権や民主主義に収斂させて考える良識家たちが決して言及引用しない思想家がいる。いずれも民主主義だの人権主義だの夢にも考えたことのない前近代の思想家たちである。
「大和心」を思想的キーワードにし、戦前は最も重要な日本人の一人としてあがめられた本居宣長もそうした思想家である。~略~二十一世紀の現在、これを超える芸術論はまだ出ていない。

本居宣長
「排蘆小舟 あしわけをぶね」
問ふ、歌は天下の政道をたすくる道也。いたずらにもてあそび物と思ふべからず。この故に古今の序に、この心みえたり。此義いかゞ。
答へて曰はく、非也。歌の本体、政治をたすくるためにもあらず。身をおさむるためにもあらず。たゞ心におもふことをいふより外なし。其内に政のたすけとなる歌もあるべし。身のいましめとなる歌もあるべし。又国家の害ともなるべし。身のわざわいともなるべし。みな其人の心により出で来る歌によるべし。

呉 智英
「あしわけをぶね」
芸術は、社会をよくしたり、人格をりっぱにしたりするためのものではない。結果的にそうなるものもある。しかし、「国家の害」となるものも「身のわざわい」となるものもある。



呉 智英氏によると、二十一世紀の現在、これを超える芸術論はまだ出ていないと言うことなので驚いている。
昨夜保存しょうとしたら文章が消えてしまったのでもう一度やりなおした。
こちらへ移ってくる時にも、コメントが消えたり、文章がなくなったりしたことがあったが、狭間で起こった単なる機械的な手続き上のことなのか、人為的なことなのかは分らない。


引きぎわ [エッセイ風]

ものごとには引きぎわがあるが、本人が気づき直面するものには、主に体力的なものと、混乱や衰退した人間関係を立て直すためのものがある。
もう一つは本人は自分の引きぎわについて無頓着なのだが、他人が気づいていて早くそうなって欲しいと言う引きぎわというものもある。
これについては、時を見て何度も何かの例え話にして本人に言い及ぶのだが、一向に気づく様子はない。
みんな呆れ果てて「死ぬまでやってなさい」と言って立ち去って行くので、強い利害関係がない限り誰からも相手にされなくなるようだ。
体力的な引きぎわを認めるのは、疲れやもの忘れから失敗を重ねるようになって他人に迷惑を及ぼすようになってからだろう。
子供や弟子や関係者に仕事を継がせる。
一匹オオカミ芸術家やソリストはそれなりの方向へ円熟していくのだろうが、危険な綱渡りや冒険をやめる時期があると思う。
演奏家で暗譜しているので楽譜を見ずに、時々目をつぶったり、半眼で演奏をされる人がいるが、老化や病気で記憶が途切れることはないのだろうか。
最初から最後まではっきりものを見て、ちゃんと判断しながら情況に沿ってそれぞれが動くことが第一とされた踊りの教室では、音楽に聞き惚れて目を開けない時があると「目を開けて!」と言われて我に返ったことがある。
それぞれの違いが分かり、人の区別がよい意味ででき、時と場合によって使い分けができて一人前なのだ。

マンガ狂につける薬 二天一流篇  呉 智英 (3)

階段と大きな木と登って行く人.jpg
撮影 中島順一郎


『蟹工船』の次は私小説?
「僕はまだ本気出していないだけ」青野春秋 小学館IKKIC
「子を連れて」葛西善蔵 岩波文庫

呉 智英氏曰く
「私小説とは、作家の私生活や内面を真摯に描き出した小説で、外国にはあまり例のない日本的文学潮流である。明治期に入ってきたリアリズムが日本風に解釈され、日記好きなど日本人の内省癖と相俟って、卑小な自分を飾り立てることなく描くようになった小説だ。~略~滅んだはずの私小説のメンタリティはマンガの中に生きている。」
「子を連れて」については呉氏はこう言っている。「略~そんな体験を売れない小説に仕立てているくらいならまともに働けばいいじゃないか、しかも子もいるんだし、~略~誰もがそう思う時代になって、私小説は事実上滅んだ。」
「それにしても私小説は辛気臭い。」「同種の漫画は、辛気臭いが笑いがある。と言うより、辛気臭さは単なる仕掛けで、本体は笑いである」
「僕はまだ本気出していないだけ」青野春秋 小学館IKKICは、「現代日本に瀰漫する甘えと自負心をはからずも描き出しているように思える」



タイトルですでに笑える私小説風漫画が生き残れるマンガなのだ。
可笑しみやユーモアや笑いがあると、なるほどどんなとげにも滋味があります。