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何度でも観たい映画「故郷の香り」  監督 フォ・ジエンチィ 原作 モオ・イエン [映画]

映画 故郷の香り.jpg
現代人には、もうなくなってしまったかのように思える、心の奥に誰もが持っていると言われる郷愁と言うものが、水の豊富な、靄(もや)の立ち込める中国、南方江西省の山村集落のシーンを見ることによって、生き生きと蘇がえってくる。
失ってしまったように感じられる、温かさや優しさや美しさに対する体感を取り戻したいと渇望する時に、映画「故郷の香り」を見たくなる。
日本の長野の山奥の村人全員で作り上げてゆく村歌舞伎と重なるところがある。
映画「キツツキと雨」の中の、ゾンビ映画の撮影隊に、村の人々が巻き込まれ、温かいふれあいが生まれる展開にも似ている部分がある。
私が幼いころに、ほんの少し触れたことのある、村人総出の茶摘みや田植えや祭りや信心のための集まり等が、笑いと共に思い出される。
温かい共同作業の喜びと、むかし乞食と呼ばれていた人まで全員が、必要とされる催しがあったことが思い起こされる。

映画「故郷の香り」の画面の中から、私にしみこんだ水の音が時々ふいに聞こえてくる事がある。
ギュッと集約された場面が心に矢を放ち、清らかな血を流させる映画と言うものはすごいなと思う。
川の音、雨の音、村の水場の池に、清い水が雨だれのように落ちて奏でる音楽は、水琴窟よりももっと自然で柔らかい。みずみずしい野菜、自転車、藁の山などがなぜこのようになつかしいのか。
土地全体の草木が風になびいて動いている。

村の娯楽は村人総出のブランコ遊びと何年かに一度やってくる京劇だ。
老いも若きもブランコに乗って空中浮遊を楽しみ、京劇に喝采する。そのような笑顔を見ると泣けてくる。

この物語は、少女と幼なじみの2人の男性の3角関係の悲恋である。
たまにやってくる京劇の役者に、素朴な美しさを持ったヌアン(少女)は憧れるが裏切られる。
高校生の幼馴染のヌアン(少女)とジンハー(男性)は2人でブランコに乗り事故にあう。
ヌアン(少女)は片足が不自由になり、京劇のスターになるのを諦めざるを得なくなる。
ジンハーは大学に受かり、村を出てゆく。
10年後に高校教師になったジンハーは、幅の狭い手作りの橋の上で、泥と汗まみれになり、疲れきった姿で足をひきずっているヌアンと再会する。
ヌアンは村の耳の不自由なヤーバと結婚し女の子がいる。
ジンハーと夫婦(ヌアンとヤーバ)が食卓を囲む場面、ジンハーを街に送ってゆく別れの場面、その3人の心の葛藤としぐさが見ていると辛い。
そばに流れている川が、濡れた苔と霧で編んだタペストリーのように美しく、ピアニストの左手のように揺れる。
京劇の役者も、大学に受かったジンハーも、約束を破ってヌアン(女性)を置き去りにしたけれど、耳の不自由なヤーバはヌアンを愛し続けた。
ヤーバは手話でヌアンと娘をいっしょに連れて行けと何度もジンハーに伝える。
この別れの場面はせつなくて非常に美しい。
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楽しい本の紹介 「迷宮レストラン」クレオパトラから樋口一葉まで  著者 河合真理 [本]

河合真理迷宮レストラン.jpg河合真理迷宮レストラン.jpg

眠る前に繰り返し眺めたり読んだりする本。
シェフの河合真理さんが実際に作った料理の写真入りです。
お客さんにはドラキュラ伯爵とか河童とか25名がいます。
目次だけ読んでいても、その人がその時代に食べたであろう料理が想像できて楽しくてたまりません。
人物が生きていた当時を思わせる調度品で飾ったテーブルの写真、古風で端正な装画も楽しめます。
レシピもちゃんとあって料理が作れます(手に入らない材料もあります。8番目のトルストイのいらくさとか・・)


<25名のお客さん中、10人のメニューを御紹介>
 
1 クレオパトラ7世様・・・赤ワインの薔薇水割り  灰ゆで卵

2 聖徳太子様・・・里芋の塩煮  にんじんの蘇和え(蘇とは古代のチーズ)

3 源義経様・・・鯉こく  ほやと牡蠣の干し貝

4 ドラキュラ様・・・馬刺しとキューリのサラダ  ハンガリー風フルーツスープ

5 シェクスピア様・・・鹿肉の赤ワイン煮

6 ヨハン・セバスチャン・バッハ様・・・にしんの燻製と芋のマッシュ

7 ファーブル様・・・ナスのマリネてんとう虫見立て  バナナ・ア・ラ・ネージュかまきりの卵見立て

8  トルストイ様・・・イラクサのシチュー 

9  近藤勇様・・・塩鮭のこうじ漬け とろろ飯

10 アントニオ・ガウディ様・・・イスラムのモザイク様式による野菜の盛り合せ


<余談>
河合真理さんの「迷宮レストラン」にはいつでも迷い込みたいけれど、山猫の経営する「注文の多い料理店」(賢治童話)に迷い込んだら塩を揉みこまれて、こちらが食べられてしまいます。
私、東北の北上の山奥の旅館に友人の紹介で行ったことがあります。
夜になって宿に着きましたが、旅館の経営はおじいさんとおばあさんと若夫婦と男女2人の幼児がやっていました。
6人の動く影の映った怖い障子をあけると、旦那さんが大きな包丁を研いでいました。 
皆でヒヒヒヒと笑うのでそうとう怖かったです。
ここでは言わないけれど色々奇怪なことが起こりましたしね・・・  
命からがら逃げ帰ってまいりました。


「会員制不思議レストラン」(NHKきょうの料理テキスト)に連載 2004年〜2006年
料理と文とレシピの作者 河合真理 
2006年5月15日 第1刷発行

2007年2月の投稿文を改定
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映画の主人公の勢いがのりうつることがある [エッセイ風]

今やっている映画「アンダーワールド(2) 覚醒」の中では、バンパイヤ族と狼男族と人間の三つ巴の種族闘争が行われていた。
バンパイア族の美しい女性闘士セリーンとその娘を主人公にした映画。
バイオテック企業の研究室で、12年間眠らされていたヴァンパイヤ族のセリーンが覚醒すると、愛し合っていた狼男族の男との間に、2人のパワーを受け継いだ娘イヴが生まれていた。
ものすごい勢いで敵同士が格闘し、画面が素早く切り替わる戦いの連続の映画で、息つく暇もないのだが、バンパイヤ族のセリーンの血みどろの戦いの合間に、彼女の娘に対する母性が垣間見えるところがなかなか良かった。
セリ―ンの娘役を演じた女性は、ロミオとジュリエットのオリヴィア・ハツセーの実の娘だそうだ。
切れの良い動作とバネ、知性的な表情を持ったスリムな体のバンパイヤ族のセリーンには母親としての魅力もプラスされていた。


<以下、お心を汚すかもしれません。よろしければ御笑読下さい>
話はまるっきり変わるのだが、私は現実問題として、仕事の内容を決めて行く時には、相手の立場を尊重し、理解しあって、丁寧に進めてゆきたいと常々思っているほうの人間だ。
しかし私には、K市の文化センターに、3年間一方的な我慢を強いられている人物(珍物・50がらみの男性課長)がいる。
はっきり言ってその人物と同じ空気を吸うのも、遠くから姿を見るのも嫌である。
いつも決まりごとの枠にはまって、ねちねちねちねち、周りを痛めつけている人物だ。
この人物が珍座しているK市文化センターと、月に2回の仕事の契約をしている。
月2回ほど通常日の講座をさせてもらっているが、芸能祭のある3月は、講座2回プラス、土・日のリハーサルと芸能祭で、月に4回出向かなければならない。
「リハーサルと芸能祭2回分の交通費と演奏指導料は出せない、無料奉仕をしろ」などと、とんでもないことを言う。
月4回仕事をさせて、2回は無料にしろと無謀なことを言う文化センターがどこにあろうか。
この人物には相手に申訳ないとか、すまないと言う気持ちはさらさらない。
「ねちねちねちねち」と陰気な声で死ぬほど退屈な電話をしてきた。
普段は大人しい私が、いよいよ堪忍袋の緒が切れ、「はい、はい、はい、はい、はーいの、はーい、はい」と早口で一気に言ってしまった。まるで民謡の合いの手だ。
私の声には、珍物に対する3年間の侮蔑がこめられていたと思う。
そして思いっきりがちゃんと電話を切った。
映画「アンダーワールド 覚醒」を見て帰って来たのでバンパイヤ族のセリーンの気骨が乗り移ってきていたらしい。
切り返しもできたし、おしかえすこともできた。自分でも驚いてしまったが、気持はすっきりした。
相手がだんだん人間ではなく、狼族が口から吐く汚物に感じられてきたから、電話で相手の口から吐かれた汚物をそのまま声の風圧で撃ち返したのだ。
リハーサルは打ち切りにした。
芸能祭の本番演奏の指導や指揮はみんなのためにやるが、もちろん無料ではない。


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映画館の困ったさんたち  [エッセイ風]

<小声で怒鳴ってまわるおばあさん>
もうずいぶん前のことだが、映画「キサラギ」を鑑賞中のできごと。
笑える時は連続で笑えるテンポのよい映画で、若い人たちが劇場の席を埋め尽くし、拍手喝采、どっと沸く声の大渦で場内は沸騰していた。
ストーリーは、インターネットのファンクラブで知り合った5人の男性が、自殺したアイドルの如月ミキの追悼会で合流し、言いたいことを言いほうだいぶつけ合うもの。
その時ゆっくりと忍び寄る不吉な影が椅子に座っている私の肩を叩いた。
暗闇の中で目が合ったとたん、ぞーっとしたが、その無表情な老人の女性はこんなことを言った。
「大声で笑うのをやめなさいよあんたたち。茶の間のテレビじゃないんだから、静かにしなさい。礼儀知らずが~~」
老女は、劇場内の入り口から前列へ、前列から後ろへと歩きながら、同じことを言って歩く。
無理ですよ。そんなこと。みんなが沸いて喜んで大合唱する映画ですよ。
少しは若者に合わせたら。おばあさん。場違いなのはあなたですよ。画面に小さくかぶる姿がじゃまでした。
皆で無視して笑っていたら、老婆の影はいなくなった。
劇場の人に話したら、「そんなことは、すぐに言ってもらわないと」ですって。
係りを呼びに行っている間の5分間~10分間、映画を観られないなんていやなのに。


<映画館でひっきりなしに光る蛍>
所かまわずちかちかして迷惑なのは、携帯電話のあかりです。
蛍だわ!と思って楽しめる人いませんね。
そのロングヘヤーのスカートの方、注意を受けると、野太い男性の声で「うるせえ」と言って、世の中を全否定するような態度で、どすどすと歩いて出て行きましたが、又入って来て、ちかちか。そういうことを3回繰り返しましたが次にどんなことを言うか、野太い声を聞くのが楽しみでした。「だあっとれ」(だまっとれ?)とかも言っていました。


<暗闇に鳴り響く紙袋の音>
駆け込んできた人が、席について上映中なのに食事をする時、紙袋は、ばさばさぱりぱりとずーっと鳴り続けます。
しかも食事禁止を言い渡されている劇場で。
箱の中のお菓子がなくなると、かけらまで全部口に入れるために、箱ごと口の上でたたき続けます。
尚、紙袋は足や手が触るたんびに音を立てるので鳴りっぱなし。
シーンとした場面をやっている時に、自分の紙袋の音が、この方には聞こえていないのでしょう。
全く気がつかないと言うことが珍しく、笑えて来てたまりませんでした。


2008年の記事から
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阿修羅のジュエリー(3)  鶴岡真弓著 [エッセイ風(アクセサリー・動植物・着物]

ナイスをいただいた方のブログは必ず拝見させていただきます。
今日、まだ公開するつもりがなかった下書きの記事「映画館のこまったさんたち」を、記事として公開してしまいました。あわてて取り消しましたが、10分間の間に2名の方からナイスをいただいたようです。申訳ありませんでした。


阿修羅のジュエリー(3)
幼いころ絵日記やテストで、先生に赤い花丸をもらったことがある人も多い。
その花丸は、阿修羅の腰に巻いてあったり、肩からかけている布にある文様の宝相華(ほうそうげ)と同じ一族なのだ。
この宝相華とは、空想上の花である。(中心部の4弁の花びらを白い円で囲み、外側に緑、赤、青の花びらが幾重にも重なっている・鶴岡真弓記)
全身、生命の色として朱色の阿修羅像の巻きスカート地も朱色であるが、そこに上から見たり横から見たりした宝相華が描かれている。(たすきの地は緑色)
宝相華は、仏の世界を象徴するありがたい花なので、花は光であり外側に放射している。
そして花のデザインは、花だけで成立したのではなく、その対応物である星と鏡になって相照らしあっている。
つまり、地上の花は天上の星とペアでありどちらも永遠の光とみなされている。
よく見る*(アステリスク)の記号も星の光(アステリズム)から来ていて、アステルはギリシャ語で星のことだそうだ。
少女マンガの瞳に宿っている星のアステル文様は、ペルシャのアフラ・マズダー神から日本の阿修羅にたどりついた花と光の文様の姉妹である。

~次回に続く~

参考文献 阿修羅のジュエリー・鶴岡真弓
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阿修羅のジュエリー(2)  鶴岡真弓著  2008年 [エッセイ風(アクセサリー・動植物・着物]

不空羂索観音像の銀の宝冠(東大寺法華堂)は、翡翠、水晶、真珠、琥珀、瑠璃玉で飾られている。
水晶の玉を合掌する手で包んでいるそうだ。
個人が身につけるジュエリーは、気晴らしや憧れにとどまる二次的なものと思われても仕方がないが、仏像の場合は、皆のための希望の光(仏の教え)を具現化したものだと言える。

鶴岡真弓さんは、阿修羅像では、少年のような表情と六臂のアクションがあまりにも全面的に言及の対象になりすぎている。ジュエリーが見落とされ胸飾りが写真に撮られていない場合もある。
ジュエリーやコスチュームの文様の神々しい「装飾の輝き」によって、阿修羅像の超越性や神秘性が強まり、こめられた祈りが昇華されていると言う。
ジュエリーが、仏の神々しさやありがたさを納得させる表現であることを見逃したら、仏像を拝み見たことにはならないそうだ。
天平時代の日本にもたらされた洗練されたジュエリーや花の文様は、メソポタミアやギリシャやペルシャでも育ち、合流しさらに手が加えられたものだ。

ジュエリー一つでこんなにも気の遠くなるようなところへ来てしまった。
あまりにも調べることが多すぎて、収集が付かないが、幸せ感がある。

阿修羅像の合掌した手には、僅かばかりに隙間がある。
不空羂索観音像のようにその両手の中に宝石を包んでいたかもしれない。
阿修羅は乾漆像で、ジュエリーは本物の宝石類ではないが、他の手には、太陽と月を掲げ、弓と矢を持っていた。


~~続く~~

参考文献 「阿修羅のジュエリー」 鶴岡真弓

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興福寺の阿修羅像周辺・私感 (別ブログより再投稿)2008・12 [エッセイ風]

多くの人を惹きつけてやまない興福寺の阿修羅像について調べているうちに、阿修羅像は少女なのか少年なのかと言う謎の解釈も人によって違い、様々なとらえ方があることを知り面白くなってきた。
作家も歌人も思い思いにそう居て欲しい(居るに違いない)願いを、阿修羅像に見つけ出す。
堀辰雄と井上靖は阿修羅像に少年を見出し、司馬正太郎と三浦朱門は少女を見出している。
また女流歌人や女子高校生は阿修羅像を通して少年に出会い、ある男性の歌人は少女に出会っている。
異聞としては、シルクロードを渡ってきた異国の少年などがある。
私は、阿修羅像に、中性的な魅力を持った少年を見出し、どこからともなく、くゆってくる魔人めいた不思議さに対する怖れを感じる。
同時に守護神の勤めを受け持つ身に対する畏れと敬いを持たされる。


三面六臂の阿修羅像は、奈良興福寺の、乾漆八部衆の中の1体である。
阿修羅像の面は3つあり、眉毛を寄せたその中の1つは、清純な中に悲しみをたたえ、苦悩しているようにも張り詰めているようにも見える。
細く美しい腕が6本あり、2つの掌はあわされて合掌し、後の4本は空中に伸ばされ広げられている。
阿修羅像の胴は引き締まっており身長は153センチ。

古代インドでは、鬼神であったが、仏教に帰依して仏法を篤く守護するようになった。
阿修羅像以外の、興福寺の八部衆(乾漆立像)の、異形の魅力も捨てがたい。
難しいことを言わずに、異様な魅力を発散する彼らと一緒に異界に遊ぶと、いろんな話が聞けるに違いない。
大蛇を神格化した畢婆加羅(ひばから)は横笛を吹く。
象の冠をかぶり、胸から下の体を持っていない五部浄(ごぶじょう)
迦楼羅(かるら)は金翅鳥で、龍が食べ物、一切の悪や毒を食いつくす。


阿修羅像と言う異神の中の人間的な部分を強いて取り出して言及すれば、少女の体をしながら、少年の心を持つ像とも言えるし、少年の体を持ちながら少女の心を持った像とも言える。
そのどれをも含んで、こちらの思いの範疇さえ超え、時によって見る側の見たいように見えて来ると言うことは、ある種の宇宙的鏡像であろう。
見る人の意向や願いを投影して、それぞれが人間的な思いで、嘗て見たことのある少年や少女をその中に見出すことができる。
しかし守護神でもある阿修羅像からは、人智では計りがたい、振動が響いて来る。


光明皇后(701〜760)の依頼で興福寺の西金堂が完成したのは、母である橘三千代(665〜733年1月11日没)が亡くなった1年後の734年1月9日だった。
光明皇后は、亡き母の追善供養のために、母の命日の1月11日に一周忌の落慶式を行なった。
阿修羅像他を作成したのは、渡来人(百済系)の天才仏師、将軍万福だった(将軍位とは関係ない)
阿修羅像は、光明皇后の母である橘三千代や光明皇后の娘の阿部内親王(718〜770)また光明皇后をモデルにしたのではないかと言われているが詳しいことは分かっていない。
光明皇后は仏師の将軍万福の工房を訪れたことがあり、お互いの気迫を理解しあったとも言われている。
天平のドナテッロと言われた天才仏師の将軍万福が、外観だけのモデルを使い、それに似せて、いわゆる写真のような記念像を、機械的に造るはずはない。
共通するものを見抜いて抽出し、それを精神性にまで高め、個性豊かな異神(守護神)乾漆像に結実させたのではなかろうか。





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他に照らし合わせるものがあった映画・なかった映画 (最近のもの) [映画]

映画「ハンター」(世界でたった1頭だけになったタスマニアタイガーをハンターが追跡する・余談ではあるが、ハンターが登場する場面にしょっちゅう流れていた、オペラのアリア?の曲名と歌手の名を知りたい)の時は、絶滅した動物絵本「ドード―を知っていますか」、宮沢賢治「なめとこ山の熊」の個人的な映像や物語を下地にして照らし合わせて観ていた。
映画「サラの鍵」の時は映画「アンネの日記」、アウシュビッツの記録映画他多数。
映画「麒麟の翼」の時も映画「キツツキと雨」の時も、今までに見た映画の端々にも似たものがあって、予想が可能で、何だかほっとする部分もあった。

しかし映画「メランコリア」流された曲は、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の内的なものを喚起する映像美には、深く魅了されたが、そのことには驚かなかった。
「メランコリア」は、希望がないことにおいては、他に例を見ない映画だった。
惑星メランコリアが地球に接近し、接近しただけでいずれは遠のくと思っていたのだが、みんなの期待をよそにぐんぐん近づいてきて、地球に衝突し地球は大爆発し消滅した。
惑星接近中には、しばらくは地球や惑星の回る音のみが聞こえて来ていた。
驚きあわてる大衆は画面に出てこず、姉妹とその家族の夫と、子供の孤独を追っていた。
何よりも新鮮だったのは、映画の初めに出てくる姉妹の父親や母親は、徹底した個人主義者であり、母親は感情の入る余地のない氷のような、崩れることのない冷徹さの持ち主であったことだ。

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映画、テレビのことなど&阿修羅のジュエリー 鶴岡真弓著(1) 別ブログより選抜掲載 2009年6月 [テレビ・映画・仏像など混合エッセイ風]

空間が灰色の意思を持った飛翔物の嵐になった雪夜に、やらなければならない事そっちのけで、劇場に足を運んだ。
「キツツキと雨」、「メランコリア」を見てきた。
感想やその映画によって呼び覚まされたことなどを書くのは、次回にまわすことにした。
BSテレビの番組「旅の力」で、エグザイルのウサさん(ダンサー?)が国民のほとんどの人たちが幸せであると答えるブータンに行き、お祭りの神の踊りを習い、うまくいかないことに苦悩し、神々を信じている善意の村人たちに、何の資格も要らずに慕われ、人間としての一体感を感じて、喜びで涙を流すところを見た。
映画もテレビも、切り離された現代の人間関係を見つめ、再出発をうながそうとしている。
ソネットブログに投稿しておられたミズノさん(シルクスクリーン?絵)とTETUさん(馬の写真)からいただいたナイスの画面が×になって投稿していらっしゃらないので、どうなさったのだろうと気になっている。ものすごく感銘を受ける絵や写真を見るのがとっても楽しみだった。



<阿修羅のジュエリー 鶴岡真弓著(1)>

6本の腕のうち2本は合掌し、あとの2本は弓と矢を持っていたと言われ、残りの2本は太陽と月を掲げていたと言われている阿修羅像(奈良 興福寺)。
もともと阿修羅の全身には、生命の色としての強烈な朱の色が塗られていた。
腰には、朱色の地に朱、緑青(ろくしょう)、群青の宝相華文(ほうそうげもん)と言われる幻想の花模様が描かれた巻きスカートを巻いている。左肩には同じ布のたすきをかけている。
胸と手首には金色(こんじき)のネックレスとブレスレット、細く長く美しい腕には腕輪をつけている。
髪は櫛目がついた高く結った宝髻(ほうけい)で、足には板金剛(いたこんごう)と言われるサンダルを履いている。
鶴岡真弓さんは、人間が気晴らしや遊びでつけているアクセサリーと、阿修羅が身につけているジュエリーとの違いを述べている。
阿修羅像のジュエリーは、人間を超えた存在の超越性や神秘性を象徴する「神々しい」美であり、本来、阿修羅像は、人々が手を合わせて拝むものであったことを忘れてはならないとのことだ。
シルクロードを超え、アジアとヨーロッパを行きかった「光のデザイン」「太陽神の魂の装飾」とはどんなものなのか、次回に続く。

本 阿修羅のジュエリー 著者鶴岡真弓
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詩 「さしもの鬼子母も」  狩野敏也詩集「中国悠々」より  2007年2月の別ブログの中から選抜 [詩]

詩 「さしもの鬼子母も」  狩野敏也(かのう びんや)

お婆ちゃんの原宿といわれる雑司ヶ谷の
鬼子母神を日暮れに訪ねた
安産と育児の神というのに、もはやその何れにも
関わりのない老婆たちがひしめいていたのだが
ボクが近づくと、なぜか連中は跡形もなく消えて
鬼子母神とボクは一対一と、あいなった
(その形像極めて端麗にして、天衣・宝冠をつけ
一児を懐にして吉祥果を持つ彼女に対して
恭しく一礼すると、鬼子母神はニヤリと笑った

「いゃあ、あのときゃ参ったな
ジャリが五百人いようが千人いようが
年とってもうけた子の可愛さは格別
末子の嬪伽羅を仏陀に隠されたときにゃ
恥ずかしながら一時は半狂乱になり申した」
と、端正な顔から、これは意外な伝法口調
(初め他人の子を捕りて食いしが、その最愛の
末子を仏に隠されてより改心し、のち遂に仏の
五戒を受け千子とともに正法に帰依したり)
・・・というのが真相でしょうと恐る恐る訊ねると

「いや、とんでもない、わたしゃ、人を食うから
鬼なのではない。鬼だから人を食ったのじゃ
柔らかい乳児、酒飲みの男の粕漬けのような美味
爛熟した人妻の味わい、老爺の堅いのもまたよし
我が子の一人や二人隠されたぐらいで
この悪癖が、にわかに改まるものか・・・あの子を
隠されてからも、しばらくは人を食っていたわな」
(それではいかにして?・・・)と思うやいなや
口に出さぬうちに彼女はボクの心中を読みとって

「これじゃ、これじゃ
仏陀はこれで我慢せよとて下さったのよ
鬼子母神は懐から
一房の奇妙な果物を取り出してボクに投げ与えた
(アッ、茘枝・・・。あの楊貴妃も愛したという・・・)
ボクは絶句しつつも、そのごつごつした果皮を
すばやく剥いで白い実を頬張った。
(うん、たしかに人の肉の味がする、これなら充分、
代用になるな)と納得しながら鬼子母神を見上げると
彼女は、もはや寸分の身じろぎもせず、いつの間にか
もとの冷厳で端正な表情の木像に戻っていた



その饒舌な風刺、これでもかこれでもかと吹き出て来るユーモアのある会話に引っ張り込まれる。
狩野敏也さんから頂いた詩集を、元気がなくなると読ませていただいています。
架空の人物と熱い会話を弾ませることの出来た詩の魅力!
背骨は知性ではあるけれども、濃くてとろとろと旨く、独特なしかもどこか品のあるスパイスが溶け込んでいる狩野敏也さんのそれぞれの詩の読後に、様々な笑いが尾を引き、何日も続きます。
このような独自なぞくぞくする面白みはどこから来るのでしょうか。
私の狩野さんの詩の入り口は、「さしもの鬼子母も」(詩集・中国悠々から)でした。
詩雑誌の中に何十編も載っている、新しく買い換えた家や車を愛でるような、または萎れた花をいとおしむような、きれいなやさしいしずかな詩群の中で、この1編だけ、その時の私には、力強く存在している食虫花に感じられびっくり仰天しました。
同じような顔をした沢山の詩の中で、名前がなくてもこれは狩野さんの詩だと迷うことなく見つけられます。
何十年もの間、自分に足りていなかった濃いエキスをこの歴史ある詩鍋でたっぷりと味わえました。
8冊目の詩集「四百年の鍋」のような鍋がほんとうに中国の奥地にあるらしいです。
熊の手の時間のかかる料理があるのも狩野さんの詩で知りました。
狩野さんは料理本も出しています「男たちの料理」「花ひらく中華料理」歌曲のCDも、絵本も出版なさっています。
詩集は7冊目「中国悠々」8冊目「「四百年の鍋」9冊目「二千二百年の微笑」
いらぬ説明より自分の「さしもの鬼子母も」を書いてみろと鬼子母神から急かされます。


●詩の最後には茘枝(れいし)の説明がありましたがここでは省きます
 ルビがつけられなかった語の読み方  
嬪伽羅(ひんから) 吉祥果(ざくろ)













       
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