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漫画「花のズボラ飯」 原作 久住昌之   漫画 水沢悦子  [漫画(コミック)]

漫画「花のズボラ飯」1巻秋田書店
エレガンス イブ(ノンジャンル・コミック誌掲載)
花のズボラ1.jpg

おおらかでふくよかな駒沢花(こまざわはな)30歳は本屋にパートで勤めている主婦。
夫ゴロさんは1巻目福岡、2巻目は神戸に単身赴任中だが、夫婦仲はいたって良い。
ゴロさんの食べっぷりはほれぼれするほどよく豪快らしい(漫画の画面には出てこない)
駒沢花は、手間がかからず、それでいて美味しい「ズボラ飯」を作って大感激しながら食べている。
料理を感激いっぱいの言葉を交え、一人パーテイをしながら、楽しんでにぎやかに食べている。
いまどきの女性で、片づけられない症候群の仲間の一人。
部屋は散らかしっぱなし、夫が帰ってくるときだけは、大忙しで大掃除をしている。
掃除洗濯もたまにやる時はやっている。
病気のために子供の出来にくい体だが、2巻目で同級生の女友達のミズキに子供が出来た時は祝福する。
1巻は1皿目~17皿目まであり、2巻は18皿目~34皿目まである。
大まかで可愛くて憎めない。
大ヒット中で、写真入りのレシピ本も出版されている。
久住昌之原作の漫画「孤独のグルメ」もテレビ化されたが、同著者原作の「花のズボラ飯」も2012年10月からテレビ東京系で放映が決まっている。
卵かけや猫まんまも美味しそう。


夏だけれど鍋物を紹介。
1巻 22皿目 「白菜ベーコン鍋」
白菜を鍋に丸く並べ、次にベーコンを並べ、白菜を並べ、ベーコンをと次々に並べ、コンソメも詰め込む。
塩胡椒をぱらぱら。弱火で煮る。水は一切いれず白菜から水が出てきたら普通の弱火に変える。
下ごしらえ5分、20分で出来上がり。

                                                                                                             
漫画「花のズボラ飯」2巻 秋田書店
エレガンス イブ(ノンジャンル・コミック誌掲載)
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レシピ本 「花のズボラ飯」うんま~いレシピ  主婦の友社
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世にも恐ろしい復讐 「キング 罪の王」 監督ジェームズ・マーシュ 2005年 アメリカ 105分 [映画]

キングぽす2.jpg
監督 ジェームズ・マーシュ
2005年アメリカ 105分
エルビス青年(ガエル・ガルシア・ベルナル)


優しげな彫の深い美青年エルビス(ガエル・ガルシア・ベルナル)が、静かな表情を最後まで崩さず次々と殺人を犯す。
父の存在も、メキシコ人の亡き母の存在も、何一つ抑止力にはならない異常な行為である。
恐ろしいけれど無関係なこととして避けては通れない問題が含まれている。
エルビスの存在自体を動物に例えると、虹色の胴体が引き締まった、蠱惑的な美しいトカゲだ。
この一見穏やかな青年の存在に関わった人々は、父1人をのぞいてはこの世から消されてしまう。



~~~以下、内容に触れています~~~



21歳の青年エルビス(ガエル・ガルシア・ベルナル)は海軍を退役し、まだ見ぬ父(プロテスタント教会の牧師)を訪ねて、アメリカ、テキサス州の南部にやって来た。
母はメキシコ人の娼婦であったが今はもう亡き人である。
父はエルビスや母のことを過ちとしてかたづけ葬り去っていた。
教会の牧師である父は、新しい家庭を持ち、エルビスには腹違いの弟ポールと妹マレリーがいた。


父は初めのうち息子のエルビスに会うのを拒否していた。
父にとっては、エルビスもエルビスの母も現われて欲しくない人間だったのだ。
エルビスは16歳の腹違いの妹に近づき妊娠させてしまう。
エルビスはいとも簡単に弟を殺して川に沈める。


牧師家族とエルビス 向かって左端牧師 左から2人目エルビス 妹 弟
エルビスが欲しかったのはこのような家庭?
すぐさま父に受け入れられていたら殺人は起こらなかった?
キング家族.jpg


妹は、初めの頃は、エルビスが兄とは知らなかったので、近親相姦は意識にのぼらないが、エルビスが兄であることを知ったあとでは苦悩し、エルビスの子を身篭ったことを母に打ち明ける。
2階の窓から見ていたエルビスはいとも簡単に妹と父の妻の2人を殺し家に火をつける


話は前後するが、ある日教会の集まりで牧師である父は、若いころの過ちを人々に懺悔し、エルビスを家族として正式に紹介する。
悔い改めた牧師の過去を聞かされた人々は、すぐには受け入れがたいのか蔑(さげすむ)むように次々と席を立つ。
エルビスには悪びれたところはなく、常にきょとんとしていて素直な態度を保ち続けている。


表情を変えないエルビスの胸の奥に巣食うのは世間への憎悪と復讐である。
その奥にあるのは父へのさらに深化した憎悪と復讐であろうか。
この憎悪と復讐は、母からも受け継いでいるのだろう。
母は父と出会った後棄てられ、子供(エルビス)を抱えて食べていけないので娼婦になったのかもしれないし、もともとそういう仕事をしていたのかも知れないが、どちらなのかわからない。
エルビスの父と母の愛憎がエルビスに影を落とし、父や弟や教会の人々から蔑むような目で見られ、自分の存在を否定されると行き場がなくなり、自分の衝動をコントロールできず、突発的に相手を殺すか、相手の大切にしているものを崩壊してしまうのだった。
エルビスは、受け入れてくれる者に対してはやさしさを見せるが、受け入れてくれない場合は急に豹変する。
エルビスの甘く静かな表情に罪の意識が現われないのが何とも恐ろしい。


エルビスが父の妻と妹を殺した後、父に会いに行くところで映画は終わる。
成り行きによってはエルビスは父をも殺すかも知れない。
生きているエルビスと母を棄て、居ないもののように取り扱った牧師への報復は、牧師と言う職業と家族の抹殺だった。

エルビスは父に言う 「(罪を)懺悔して天国に行きます」
心から後悔して懺悔するわけではないので、「こんなことやってしまったよ」と言うような報告に聞こえる。
エルビスは父に全身全霊でほうっておいたことをあやまって欲かったし、心底愛して欲しかったに違いない。

罪の意識がまるで無いように見える(感情として現れない)のが不気味だった。
亡き母とエルビスのストレスは2重にわだかまり、ずっと増殖進行中だったのだろうか?
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映画「ヘルタースケルター」(しっちゃかめっちゃか) 2012年7月 監督 蜷川実花 [映画]

ヘルターポスター2.jpg


漫画 ヘルタースケルター 
岡崎京子 祥伝社 2003年 全1巻
ヘルター(らせん状)スケルター(滑り台)
秩序の崩壊 しっちゃかめっちゃか
漫画ヘルター2.jpg



人の欲望や願望が深い意識で寄り集まって、痛々しい哀れな怪物を作り上げてしまったようだ。
そういうものを巨大化したくなければ、忌避するのではなく、誰にでも作用してくるものとしてしっかりと覚醒した意識で見ていかなければならないだろう。


ヘルター部屋.jpg


濃度の重い絢爛豪華な色調の部屋に住んでいる全身整形を受けたトップモデルのりりこ(昨今話題の沢尻エリカ)には、りりこの整形前の顔立ちに似ている妹がいる。
姉妹は時々会っては、お互いの願望を見つめあっている。
りりこは整形した体と名声を維持するため、(後遺症で顔や体に黒いアザができるので)、整形を何度も繰り返し、地位を守るために芸能界の男性に身を提供している。
モデル事務所の社長(桃井かおり)は、整形したりりこが自分の若いころとそっくりであり、トップモデルであることで自分の願望を果たしつつある。
美容クリニックの院長(原田三枝子)も、後遺症が残ることを承知で手術を行っている。
同性を自分の名声や願望を成就させるために窮地に陥れている、(整形の後遺症で自殺者が多発)社長と院長の裏側では、まっとうな名声は崩壊の一途をたどっている。
言葉使いの表面的な安定や身を守る断定にだまされてはいけない。


性的なことにおいても、りりこのいいなりになるマネージャー羽田(寺島しのぶ)は、どんな辱めにあおうが、打撃にあおうが、りりこについて行くつもりである。
このマネージャーが自分を取り戻した時には、大変なことが起こりそうだが、まだその兆しは見えない。
りりこはマネージャーに天然自然の美少女モデルこずえ(水原希子)を傷つけるように命令するが、カッターで切りつけようとして失敗する。
りりこをほっておけば、ライバルや邪魔する者をマネージャーを使ってこの世から抹殺して行く勢いを持ってしまう恐れがある。

りりこの顔のあざ(整形の後遺症)
ヘルター顔のあざ.jpg


~~~~以下最後の内容に触れています~~~~


ヘルター泣き顔.jpg

美容クリニックは、臓器販売事件にかかわりがあるとにらんだ検事麻田(大森南朋)は、事件をあばくことによって、りりこの救世主になることができると考えられたが・・・・

今までの赤のドレスから、純白なドレスを身につけ記者会見に臨むりりこは、自傷行為を決行する。
皆の前でそれをするということは、漠然としはているが社会や人々に対する復讐心からすることではないだろうか。
「もうこんな仕事はやりたくないよ」とりりこが叫ぶシーンは、それまでの憎々しいシーンがあるからこそ痛々しい。

その後、
ナイトショウを見せるお店にいるりりこは、体と精神を保つことが出来れば、年を経て異色バーのマダムに居座るか、それまでの人脈を駆使してママ(桃井かおり)の後を継ぐかもしれない。
確か妹も整形してしまったようだ。
街角に立つ横浜メリーさんと言う顔面白塗りの人が昔いたが、年を取られてから郷里の老人ホームに入ったようだ。


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絵本「大千世界のなかまたち」 スズキコージ 作・絵  福音館書店 [絵本]

絵本「大千世界のなかまたち」 スズキコージ 作・絵 福音館書店
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作者は言う。
「ぼくは、子供のころから、自分の周りに、人間ではない何かの生きものの気配を感じることがあって、それはカやハエでもなく、と言って得体の知れないおばけなんかでもなく、しらんぷりをしていると、ちゃんと姿をあらわしてくれるのであった。あわてて見ようとするとふっと消えてしまうので、ぼくは、直接見つめないようにとっくりながめる練習をつんだ。」


小さな子供が何かの必然性があって、自分だけに見えるお友達と話していることはよくある。
そのお友達のことを、大人になってまでよく覚えていて、絵にしたり、物語にしたりすることが出来る人たちがいる。
スズキコージさんもその一人だ。
空を飛ぶ正義感の強い無垢な少女(アニメ)を描かせると他に類を見ない宮崎駿さんなどもおられて枚挙に暇はない。
父母や周りの大人たちの作りだす現実世界との摩擦によってショックを受けた7歳くらいまでの子供が、胸に抱いている夢をはぐくむために(やわらかで柔軟な夢を大人たちに殺されないために)、クッションの世界を見つけ出しているのかもしれない。
大人の入り込めないバリヤーを、目に見えないお友達とはりめぐらしているのかもしれない。
大人になってからも、眼に見えないお友達との交流のあるスズキコージさんは40人もの大千世界に住んでいる人々を紹介してくれている。
妙に説得力のあるその中の一人を紹介させていただこう。



大千世界の仲間たち本文から引用
「マスカン」 (ネッカチーフをかぶったロシアっぽい衣装の女性の絵・ブログ主)
お祭りの縁日にまぎれて、お面を売るおばさんがいる。ぜんぶ売り切れると、自分の顔からつぎつぎと脱皮するようにお面を取り、数をふやすので、見ている人はどぎもをぬかれてしまう。
ぼくがこのマスカンから買ったお面は、ふしぎにつけごこちがよく、お祭のあいだじゅう、寝るときも、顏をあらうときもはずしたくない衝動にかられた。
祭がおわって、マスカンがつぎの祭のある所へと移っていったとき、やっとふつうの感覚にもどれたのだった。
ぼくは思うのだが、マスカンはもうこれ以上顏からお面がはがれないとなったときに、これがほんとうの自分の顏だとなっとくして隠居してしまうのだろうか。それとも何百年も前から、これからもずうっとお面をとりつづけられる、不死の人なのだろうか?


本と本の隙間に住んでいて、紙魚(しみ)を食べて生きている「スキママン」や、休みの日には森林浴をしているので、木々の香りがする銭湯の女湯と男湯の境の壁の上で寝そべっていいる「セントロン」もいる。


大千世界のいきものたち スズキコージ作・絵 福音館書店
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(2)トラウマって? よい物語(時期に適った)のカタルシス  「映画の構造分析」文春文庫 著者 内田樹が語るトラウマ [本]

*(^v^)(左の絵)の部分の後には、ブログ主の感じたことや考えたことを述べています。
まずは作者に敬意を表し、好き嫌いを抜きにして興味深いことについて、読書体験をすることが目的。
★『 』の中は内田氏の著作の言説。「映画の構造分析」の内容。
~は略記号


*(^v^)私たちが太古以来、物語を語ってやまないのはなぜか?
総合芸術である映画を見て、とらえかたの浅い深いはあろうとも、心が動かされているのはなぜか?
人は映画や演劇や昔話などによって語られる物語のすべてにおいて、個人的な(または普遍的な)共通した精神の高揚を経験し、感動を得ることによって、カタルシスを体験し、抑圧から解放され浄化されている。

★『 「作り話」のうち、ある種の嘘=物語は私たちの症候を緩和する力を持っています」 』
『トラウマと言う「穴」に漸近(ぜんきん)線的に接近し、穴の輪郭をそれとなくかたどり、その破壊的な効果を軽減する「阻止線」となるような種類の物語は、そのような意味においてよい物語(カタルシスを味わえる)なのです。』




*(^v^)他者と物語を共有する。 信頼できる他者と私が協働的に「記憶」を交えて物語ってゆくと言うことで、隠されていたものが現れ、感動することによって浄化されると、トラウマの抑圧から解放される。

★『私たちは注意深い聞き手を得ると、堰を切ったように「自分の過去を」を語り出します。 
~略  過去の記憶は、相手が変わるごとに微妙に変わります。 ~略  「思い出した記憶」であれ、「作りだした記憶」であれ、私自身がそれを自分の記憶だと信じ、聞き手がそれを私の記憶として認知してくれるなら、その時ある種の高揚感とカタルシスが経験されることに変わりはありません。



映画の構造分析 2003年 晶文社刊
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(1)トラウマって? 「映画の構造分析」文春文庫 著者 内田樹が語るトラウマ [本]

*(^v^)(左の絵)の部分の後には、ブログ主の感じたことや考えたことを述べています。
まずは作者に敬意を表し、好き嫌いを抜きにして興味深いことについて、読書体験をすることが目的。
★『 』の中は内田氏の著作の言説。「映画の構造分析」の内容。


*(^v^)トラウマ(ギリシャ語で傷の意)と言うのは、フロイトの心理学において、恐怖体験による心的外傷のことで、抑圧すると後遺症が残るとされている。
信頼できる聞き手に手伝ってもらって、トラウマを明らかにし、再確認し追体験すれば後遺症はなくなるものと思っていた。
トラウマはその気になれば容易に確認できるとも思っていた。が、しかし・・・

内田樹氏の著作「映画の構造分析」の「トラウマの物語の中に
★『トラウマはそれを抱え込んでいる本人によっては決して言語化できません。
と言うのは、その人の言語運用そのものが、その「言語化できない穴」を中心に編みあげられているからです」』とある。

★『抑圧されたものを、「そのもの」として直接名指すことは原理的に不可能だと言うことです。その「名づけえぬもの」をフロイトは「トラウマ」と名づけました。』

★『トラウマは、その経験を記憶したり、記述したり、評価したりする言語がその人自身には構造的に欠落しているような経験です』

*(^v^)ブログ主が自分のトラウマだと認識していたことはトラウマではなかったのかと言う疑問が起こってくる。
それとも詳しく具体的には述べることに何らかのブレーキがかかっていて言語化できず、だいたいの大まかな方向性の題字を提供することが出来ることだけなのかもしれないとも考える。

★『抑圧されたものは必ず代理表象を経由して物語として徴候化します』
*(^v^)トラウマは、物語にしてしか微細なことを言い表わし実感することはできないらしい。

★『仮にトラウマが言語化されたとすれば、それはその人の言語運用全体(単語の意味も、発声法も、文体も、統辞法も)すべて、~つまりその人の人格そのもの~が消失してしまうことを意味しています。
私が「私」としての自己同一性をキープしながら、なお「私のトラウマ」を語ると言うことは原理的に不可能なのです』


<望み>
★『トラウマはそのものとして思い出すことが出来ない以上、そのものとして「告白」することもできない。トラウマは証言されねばならない。
語る主体が所有していない~所有することが出来ない~何かを回復するために、語り手と聞き手が分かち合う、ある種の絡み合いを通じて』

<わかったこと>
*(^v^)聞き手と語り手による物語が必要である。
私たちは聞き手の代役として、映画の中の物語を、自分のことのように感じながら観ているのだ。

(2)に続く~

「映画の構造分析」ハリウッド映画で学べる現代思想
著者 内田樹 文春文庫
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(1)自分にとっての異聞  「うほほいシネクラブ」著者内田樹 文春新書 映画「冬のソナタ」のとらえ方 [本]

「うほほいシネクラブ」(街場の映画論)著者 内田樹の中の著者の言葉に
「純愛が純愛であるためには条件が必要です。
それは『身分違いの恋』、『逆らうことのできない親の命令』、『不治の病』。ここに『記憶喪失』が加われば完璧。」と言うのがある。

テレビドラマ「冬のソナタ」は、ミニョン(男性)とユジン(女性)の純愛物語である。
「冬のソナタ」を思い返すと、『身分違いの恋』をのぞいては、確かに必要条件が全て当てはまる。
『身分違いの恋』には当てはまらないかも知れないが、恋人同士のミニョンとユジンは、異母兄妹ではないかと言う疑惑が持ち上がったこともあった。(ほんとうはユジンの婚約者の男性が、ミニョンと異母兄弟であった)

「冬のソナタ」 
日本公開2003~2004年 20話 監督 ユン・ソクホ
向かって左ユジン(チェ・ジウ)  向かって右 チュンサン・ミニョンの2役(ぺ・ヨンジュン)
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建築デザイナーのミニヨン(男性)は、10年前の高校時代にはチュンサンと呼ばれていた。
ミニヨンとチュンサンは同一人物。 
チュンサンは交通事故に遭い、記憶を喪失し、皆の前から姿を消しアメリカへ留学していた。
母によってその秘密は隠されていた。 
記憶を喪失して生きているチュンサンを、皆の記憶の中で亡くなったことにした母の影響は大きい。

「私たちはもう映画を語る言説には飽食しているのです」と語る著者の言説は、どのあたりで人はあきるかを熟知して語られているので、なるほど人をあきさせないものがある。

「死者とのコミュニケーション論」を軸に語られる「冬のソナタ」は、難解であることによって、私(ブログ主)をあきさせなかった。
「冬のソナタと複式夢幻能は同一の劇的構成を持っている。」(著者の弁)のだそうだ。
能にはシテ(中心人物・主役 亡霊や化身、精など次元を超えて自在に設定される)とワキ(シテの相手役。僧、神職、大臣他)が登場する。
能に例えるならば、ワキのユジン(女性)が、亡くなったはずのチュンサンにそっくりなミニョンに出会う所から物語は始まる。

ユジン(女性) 「あなたはなぜ死者の国から戻って来たのですか?」
ミニョン(男性 前場・前シテ) 「では本当のことをお話しましょう」と予告して橋がかりから立ち去り、中入りとなる。
チュンサン(男性 後場・後ジテ)再登場し死にまつわるすべてを語り始める。

後ジテのチュンサンは「自分が何者であるか」を探って、トラウマの起源に遡(さかのぼ)る。
チュンサンを殺したのが(記憶喪失だとは言え、今までの存在の記憶をないものとしてしまった)「母」であること、彼を棄てたのが「父」であること、ユジン以外のすべての知人友人がチュンさんの死(とミニョンとしての再生)を願っていた事を知る。

☆友人知人はチュンサンの死を受け入れ、もう言葉を交わすことはできないとあきらめていた。ユジンは言葉を交わすことが出来ると信じ、いつも生きている者に語りかけるように語りかけていた。

チュンサンが死なないことを望んでいたのはこの世界にユジン一人だったのである。
彼女一人が「正しい服喪者」であった。
それはユジンがチュンサンに関する全てを記憶しているだけでなく、彼の死後も「チュンサンに訊きたいこと」があったからである。

著者は言う
【大晦日の夜、ユジンにチュンサンが「言いたかった言葉を思い出したよ」と告げる場面で、服喪者(ユジン)と死者の間に通信ラインが繋がった。
「人間性の起点標識が立ちあがった」その時の感動を追体験した著者はここで涙ぐむのだった。
正しい儀礼をすれば、私たちは死者からのメッセージを過(あやま)たず聞くことが出来る。】
ユジンは「なぜ、あなたは他の人のように立ち去ることをせずに、ここにとどまっているのか?」という問いを持ち続ける。


死者から、現世にいる自分に何らかの形でメッセージが届くと信じている者には届くらしい。
ブログ主は、このような祈りによってこそ相手(死者)は成仏できるのではないかと推測する。

(2)に続く~~


うほほいシネクラブ 街場の映画論 著者内田樹 文春新書
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私感 覚書  興福寺の阿修羅像周辺 [歴史物]

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興福寺 阿修羅像(奈良時代 天平6年 734年) 八部衆の中の1軀)


(2008年12月に別ブログに投稿したものを再考しました。)

多くの人を惹きつけてやまない興福寺の阿修羅像。
(奈良時代  734年に西金堂に納められた。8部衆の中の1軀)

少女なのか少年なのかと言う謎の解釈も人によって違い、様々なとらえ方がある。
作家も歌人も思い思いにそうあって欲しい(居るに違いない)願いを、阿修羅像に見つけ出す。
堀辰雄と井上靖は阿修羅像に少年を見出し、司馬正太郎と三浦朱門は少女を見出している。
また女流歌人や女子高校生は阿修羅像を通して少年に出会い、ある男性の歌人は少女に出会っている。
異聞としては、シルクロードを渡ってきた異国の少年などがある。
初期の阿修羅はインドの魔人(闘争神)であり、闘争に次ぐ闘争を重ねていたが、許されて仏教の守護神となった点では、善悪の酸いも甘いも噛み分けた頼もしさがある。
私は、阿修羅像に、中性的な魅力を持った少年を見出し、どこからともなく、くゆってくる魔人めいた不思議さに怖れを感じる。
同時に守護神の勤めを受け持つ身に対する畏れと敬いを持たされる。

興福寺 阿修羅像(奈良時代 734年)
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三面六臂の阿修羅像は、奈良興福寺の、乾漆八部衆の中の1軀である。
阿修羅像の面(顏)は3つあり、眉毛を寄せたその中の1つは、清純な中に悲しみをたたえ、苦悩しているようにも張り詰めているようにも見える。
細く美しい腕が6本あり、2つの掌はあわされて合掌し、後の4本は空中に伸ばされ広げられている。
阿修羅像の胴は引き締まっており身長は153.4センチ。

古代インドでは、鬼神であったが、仏教に帰依して仏法を篤く守護するようになった。
阿修羅像以外の、興福寺の八部衆(乾漆立像)の、異形の魅力も捨てがたい。
難しいことを言わずに、異様な魅力を発散する彼らと一緒に異界に遊ぶと、いろんな話が聞けるに違いない。
大蛇を神格化した畢婆加羅(ひばから)は横笛を吹く。
象の冠をかぶり、胸から下の体を持っていない五部浄(ごぶじょう)
迦楼羅(かるら)は金翅鳥で、龍が食べ物、一切の悪や毒を食いつくす。


阿修羅像と言う異神の中の人間的な部分を強いて取り出して言及すれば、少女の体をしながら、少年の心を持つ像とも言えるし、少年の体を持ちながら少女の心を持った像とも言える。
そのどれをも含んで、こちらの思いの範疇さえ超え、時によって見る側の見たいように見えて来ると言うことは、ある種の宇宙的鏡像であろうか。
見る人の意向や願いを投影して、それぞれが人間的な思いで、嘗て見たことのある少年や少女をその中に見出すことができる。
しかし守護神でもある阿修羅像からは、人智では計りがたい、振動が響いて来る。

製作された当時(奈良時代)の姿は丹色(朱)だった。
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吉祥天女像 
光明皇后を写したと伝えられている。麻布に描かれた日本最古の彩色画
薬師寺所蔵 宝亀2年(711年)ころに製作されたと推定されている。
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光明皇后(701〜760)の依頼で興福寺の西金堂が完成したのは、母である橘三千代(665〜733年1月11日没)が亡くなった1年後の734年1月9日だった。
光明皇后は、亡き母の追善供養のために、母の命日の1月11日に一周忌の落慶式を行なった。
その時に阿修羅像は西金堂に納められた。
阿修羅像他を作成したのは、渡来人(百済系)の天才仏師、将軍万福だった。
阿修羅像は、光明皇后の母である橘三千代や光明皇后の娘の阿部内親王(718〜770)また光明皇后をモデルにしたのではないかと言われているが詳しいことは分かっていない。

光明皇后は仏師の将軍万福の工房を訪れたことがあり、お互いの気迫を理解しあったとも言われている。
天平のドナテッロと言われた天才仏師の将軍万福が、外観だけのモデルを使い、それに似せて記念像を、機械的に造るはずはない。
共通するものを見抜いて抽出し、それを精神性にまで高め、個性豊かな異神(守護神)乾漆像に結実させたのではなかろうか。
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阿修羅の髭(ひげ)  天界の守護神は両性具有者か [歴史物]

興福寺 阿修羅(正面) 三面六臂
阿修羅にひげ.jpg

阿修羅像の正面の顔の口もとには、墨筆を使用したような黒い流麗な線が描かれている。
髭なのか、いれずみなのか、仏像に特殊な文様なのかよく分からない。
上唇の黒い流麗線は、唇の2山をなぞって、両口角まで行き、両端でくねっている。
下唇も両端から黒い流麗線でなぞり、唇の真ん中で丸い輪になり、中心から流麗線が下に伸びている。
このひげのようなものは、正面の顔だけについている。
8部衆の中で、堂々としたひげとわかるものを蓄えているのは、大蛇を神格化した畢婆迦羅(ひばから)だけである。


畢婆迦羅(ひばから)
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阿修羅の美しいひげに気付いてから、他の仏像の口もともよく見るようになった。
仏像の口もとのひげは、ほほえんでいる表情を現わしているとか、又は尊い話をしている時の口の動きをあらわしているとか、慈悲を説く時の様子をあらわしているなどと言われている。
こんな例えで恐縮するが、漫画で口を動かしている時に、口の周りに動きをあらわす線が描かれていることがあるがこれは人間界のことである。
確かにこの黒い流麗線は美しく、仏像独特のものだろう。


もう一つの考えは、仏教では、女性はそのままではなぜか成仏できないと言われており、一度ひげをつけて男性になろうとする為のものであると言うことがある。


阿修羅は少年か少女か、いや両性具有者であろう、また善神ではあるが邪神の部分も備えているとか、そのすべてを肯定しその上でのひげである。
いれずみではないのであろうが、そうかもしれないとなると、部族をあらわすいれずみのことを調べなくてはならない。

ガンダーラの仏、千手観音、不空羂索観音、十一面観音などなどひげを見つけるのが楽しくなってきた。
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(3)ハリウッド映画で学べる現代思想 「映画の構造分析」 著者 内田樹 映画「エイリアン」 [本]

(2)の続きである。
著者 内田樹氏は、ハリウッド映画で学べる現代思想 「映画の構造分析」の中で、ハリウッド映画「カサブランカ」から「明日に向かって撃て」を経て「バンディッツ」まで、女性嫌悪の定型的な物語が背後に存在していることを述べている。

初期のアメリカ映画はそれほどまでに女性嫌悪的ではなく1920年代までは、映画「ポーリーンの危機」、映画「ヘレンの冒険」などの女性主人公による連続冒険活劇があり、評判を呼んでいた。



成功した最初のフェミニズム映画は「エイリアン」で、主人公の女性リプリー(シガニ―・ウィーバー)は、「白馬の王子さまの救助を待たず自力でドラゴンを倒す」自立した「お姫様」だった。
映画はヒロインのリプリーとこれを屈服させようとする家父長制的な男性性の間のデス・マッチ(死闘)と言う図式のもとに展開される。

映画「エイリアン」1979公開 監督リドリー・スコット 117分
エレン・リプリ―(シガニ―・ウィーバー)
アッシュ(イアン・ホルム  その正体はウェイランド社のアンドロイド)
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映画「エイリアン」のリプリーはジェンダー・フリー(性差をなくさず、性別による差別はない)のヒロイン。
以後、リプリー(航海士)は、ジョディ・フオースター、デミ・ムーア、メグ・ライアン、サンドラ・ブロック、ジュリア・ロバーツ等が演じることになる男性の暴力に決して屈しない自立し自己決定する女性の原形となる。
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映画「エイリアン」
エイリアン・フェミニズム
あらすじ 

宇宙貨物船ノストロモ号は、地球への帰還の途中、ある星から信号を受信し、化石化した宇宙船と異星人の死骸を発見する。
船底には卵を孵卵器に守られた幼生の蟹のような生物が存在し、乗員の顔に張り付くが、強酸性の体液を分泌するため、取り外すことが出来ない。宇宙貨物船ノストロモ号は地球へ向かう。
乗員は腹部に激痛を覚えのたうちまわるが、胸を食い破って蛇状に形態化したエイリアンが出現する。
乗員は一人づつ殺されていき、最後に残った航海士(リプリー)とエイリアンの命がけの対決が始まる。

エイリアン
エイリアンの姿.jpeg



「映画の構造分析」 著者 内田樹より抜粋
エイリアンはその男根状の頭部を見るまでもなく、純粋な攻撃性、自己複製を作り出すことへの飽くなき欲望といった兆候から分かるとうり、男性の性的攻撃の記号だ。
リプリーは、繰り返し凌辱され、傷付き、損なわれ、自立への空しい努力は暴力的に押しつぶされる。


※古代的な恐怖譚「体内の蛇」とは、「母になること」に対する女性の側の恐怖と不安と嫌悪を物語的に表象したものである。
母になることは喜びであり、祝福されるべきこととして経験されなくてはならず、恐怖と不安は女性自身によって抑圧されることになる。
ここで両立不可能な意味の亀裂が走る。

酸素の冷却剤(先端の丸い金属の棒・因習的な性的記号)や猫(ジョーンズという名前・女性性器の記号)捜しのために、残った3名の内の2名がエイリアンに殺される。
自爆装置(4本の金属の棒・性的記号の奔流)で母船が爆発する。
※女性の象徴はくぼみ、溝、洞穴、管、瓶、箱、トランク、筒、ポケットなど。


映画の最後で、白い鎧に身を固めたヒロインは、見事ドラゴンを宇宙空間へ吹き飛ばして最終的勝利を収める。

多様な記号の群れが絡み合い、背馳しあう物語の厚みが私たちを繰り返し挑発し、解釈へと誘い、映画を見ることへの深い愉悦を経験させてくれる。





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