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また見たい映画 [映画]

★火山噴火や地震のお見舞いを申し上げます。
★コメントのご返事をそれぞれちゃんとなさる人を尊敬致します。

捻挫したので、山歩きの杖が役に立っている。
一か所を怪我すると、よろけるので何度も同じところの周辺を打って痛い。
痛みをこらえていると、不安や怒りや心細さが針くずのように音もなく積る。
情感たっぷりの映画を見たくなる。
つたやにはないDVDがほとんどだ。



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「雨月物語」京マチ子   なよなよくねくねした若狭(わかさ)が美しい。
映画には、上田秋成の雨月物語の中から「浅茅が宿」「蛇性の婬」、モーパッサンの短編「勲章」が盛り込まれている。
気力が戻ったら「雨月物語」を紹介したい。


誓いの休暇.jpg
「誓いの休暇」 ロシア映画 少女と兵士の物語


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「白夜の妖女」月丘夢路 葉山良二 原作は泉鏡花の「高野聖」昭和30年代 



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「グリーン デステニー」
涼しげで哀しそうなチャン・ッィイーもいいものだ。
顔にかかる髪が、どんなアクセサリーよりも綺麗だ。




妖婆 死棺の呪い.jpg
妖婆.jpg
「妖婆 死棺の呪い」 ロシア映画 リメイク版もあるらしい。
美女の妖怪や湧いて出てくる奇妙な妖怪たちが面白い。




柴犬カンチの足跡日記 カンちゃんは「ニパパ」と笑う
http://blog.livedoor.jp/kanchi_m/


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左足打撲・捻挫から2週間と2日。まだ痛い! [映像]

★皆様のところへは、ぼちぼち訪問させていただいております。

<何だか可哀そうな自分>
ほんとうは1週間安静にしていなければならなかった。(安静になんてしていられなかったんだ・泣)
風呂の掃除や食事の支度は家の中をゆっくり歩き回って少しずつやった。
痛みをこらえて、食糧の買い出しやDVD返却(怪我して3日目)や近場での仕事も楽しくこなした。
1週間後、どうしても自転車には乗れないこと位分かっていたけれど、歩けないので少しは乗ってみたりした。(油汗)
人に送ってもらったりしながら、このさいタクシーも使った。
10日をこえると日にち薬とはよく言ったもので、痛さが減って行ったが、とにかく痛くて眠い。



<好きな絵>
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「老猫ラミナ」  ルネ・マグリット(1898~1967)


<好きな花>
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大山蓮華(オオヤマレンゲ)  モクレン科 落葉広葉樹 



<好きな映像>
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映画「初恋のきた道」のチャン・ッィイー



柴犬カンチの足跡日記 カンチちゃんの好きなものはにぎやかな宴会。
おとさん(おとうさんのこと)の枕。付き人さんの靴下。うどん。お肉。
http://blog.livedoor.jp/kanchi_m/

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記事投稿を5月いっぱい休みます  [映像]

★皆様のところへは拝見に行かせていただきます
★左足捻挫のため、拙ブログ、記事投稿を2週間~3週間余りお休み致します。
 一か所痛いと、痛くない部分を選んで使うため、今まで使っていなかった手足の筋肉をことさら使い、凝りが生じますね。
あちこち無理が行くらしくすぐに疲れてしまって眠くなってしまいます。
この際、ムーミン谷の誰かさんのように、腐るほど眠ってみようと思います。


<好きな映像>
「楽園への歩み」(1946)  
W・ユジン・スミス(1918~1978)
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<好きな映像>
秋田おばこ」(1952年) 
木村伊兵衛(1901~1974)
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<たのまれもしないのにご紹介!>
柴犬カンチの足跡日記 http://blog.livedoor.jp/kanchi_m/ ゴールデンウィークを終えての後遺症


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賢治の嗜好品(1) 煙草 [宮沢賢治]

賢治は、1921年(大正十年)父親(町会議員)に紹介され花巻農学校の教師になった。
宮沢先生の授業は分かりやすく、教師を務めた4年4カ月の生活は「実に愉快な明るいもの」だった。
給料は百五円で、洋書購入や西洋音楽レコード、裸婦の洋画、一千枚の浮世絵・春画収集、楽器やレストランの洋食他に散財した。


父親の視点に立って賢治を考えてみると、どうしょうもないドラ息子であった。
家出をした時など、反抗しながらも、父親に金銭を催促する手紙を書き続け、父親の資金で「春と修羅」を出版した。(賢治文学「呪いの構造」)山下聖美より


父親は、羅須地人協会の時も賢治に分からないように裏から財政援助をしていた。
羅須地人協会は、教え子や地主クラスの息子たちなどの篤農集団や町の奇嬌好きの文化人の集まりだった。
(宮沢賢治殺人事件)吉田司より


東北砕石工場の時もすべて父親が賢治のために出資していた。
背後から賢治を支えていたこういう父親は、いない者にとってはありがたいものに感じられる。
賢治は、百姓の仲間入りをするのをやめ(止めざるを得なかった)結局、肥料を売るセールスマンになったが、作品には独特の心象風景が反映されなくなった。

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教員時代・煙草をたしなむ賢治(向かって左)
なんだかふわっとして、気が抜けていて、楽しそうです。
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口付紙巻きたばこの銘柄 「敷島」(20本入・10銭)


★聖賢治のイメージを返上して、等身大にいつごろ戻どれますかね。
それにつけても幽霊や土地に住む怪奇なものたちをみる事が出来た賢治の能力は、どう説明すればいいのでしょうか。


賢治の嗜好品 (2)食べ物 (3)レコード音楽  ~つづく~

柴犬カンチの足跡日記 お土産大歓迎! http://blog.livedoor.jp/kanchi_m/

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羅須地人協会 年譜「宮沢賢治伝」堀尾青史・著 [本]

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賢治は下根子桜(地名)の祖父の別荘に手を入れて独居した。
別荘は賢治が他界した後売却され、現在は岩手県立花巻農業高等学校内に移転している。
鍵を借りて中に入ることができる。


賢治は1926年3月、岩手県立花巻農学校を退職し、祖父の別荘で羅須地人協会を立ち上げた。
町内の青年三十余名とともに農村文化の創造と農業改善に努力した。
母や妹が賢治の粗食を憂えて食べ物を届けたが、一切食べなかった。
母が「賢さん、そんなにかせがなくともいいのに」と言うと
賢治は「あたりの畑に一人でも村の人がかせいでいるうちは、やめません」と言う。
「あの人たちには家にちゃんとはたらく女の人たちがおって、ご飯のことをする。帰ればすぐ食べられる。賢さんは帰ってもそうはいかないでしょう。早く畑仕事をやめても、だれも何とも言わんでしょうに」と母が言っても、賢治は聞かなかった。



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羅須地人協会にある井戸

近くに住む伊藤忠一(教え子)は、賢治の独居の物音で、先生が今何をしているのかがわかる。
それにしても、あの粗食と労働、そして執筆では、どう考えても体がまいりはしないかと思われる。
めしを炊くのも林の中の炊事場で、鉢巻をしてエスペラントの勉強をしながら炊いている。略。
寒くなると炊事場は家の中へ移ったが、あいかわらずめしは炊きおきで、つめたい固いめしに塩をふりかけるだけである。(夏はめしに梅干しを入れそれをざるに入れて井戸につるした。)
ふろは林の中に煉瓦で塀を作り、水槽から水が流れるようにして冷水浴をしていたが、めんどくさいのか井戸端で行水をしている。略。

また読経やいい声で歌うのも聞いたが、時には奇声を発するのも聞いた。
それは奇怪な霊界、幻聴などが襲う時だということであった。
賢治の父は、賢治の超能力をタブー視し、外部には一切もらさなかった。

羅須地人協会には、明るくて活発な高瀬露という女性が賢治の世話を焼きに頻繁に訪れるようになり、大島に住む伊藤ちえという女性も兄と2人で訪ねて来たのであった。



★ブログ主の個人的な状況 
捻挫で左足が痛くて歩けない状態。
明け方、父が夢枕に立ち、山奥の実家の部屋で横たわっている2人を指差した。
その日の午前中に、56歳の独身のいとこの男性が脳内出血で3日前に亡くなっていたと叔母から電話があった。
横たわっている人は2人だったのだがもう一人は誰?
 

柴犬カンチの足跡日記 http://blog.livedoor.jp/kanchi_m/ 
こんなに乙女チックな人間好きなワンコも珍しい。



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賢治にとりつかれた人々「賢治文学 呪いの構造」山下聖美 [本]

山下聖美氏は、字もそっくりに賢治になりきる弟・清六氏に言及し、歯に衣(きぬ)着せぬ率直な意見を述べる日本近代文学研究者である。


以下「賢治文学 呪いの構造」著・山下聖美より
賢治の弟の清六氏は、八歳年上の兄・賢治が宮沢家の長男としての役割を果たせなかった家業を引継ぎ、結婚し、子供をもうけ、賢治の原稿を戦災から必死で守った。
このような働きは最大に評価してしかるべきものである。
しかし賢治を研究したり、評論しようとする者は、こぞって清六氏のもとを訪れて、おすみつき「清六マーク」をもらうために顔色をうかがった。
「清六詣(もう)で」なしに、賢治についての文章は発表できないという暗黙のルールが存在していたのだ。

作品の解釈は読者にゆだねられているわけで、読者がどう感じようと、それはそれでまったく自由なはずだ。
ましてや作者自身でもない遺族が、読者の解釈を制限するなどあり得ない話である。

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羅須地人協会時代(1926年~1928年)の賢治。 当時花巻にリヤカーは20台ほどしかなかった。賢治は、リヤカーに開墾畑で作った西洋野菜や西洋の花々を乗せて売って回ったが売れなかった。


<賢治をめぐる現象>
1996年賢治生誕百年のその年、日本には空前の賢治ブームがおとずれた。
テレビ・新聞・雑誌などのマスコミ、映画・演劇・朗読・コンサートなど宮沢賢治の名前を聞かない日はないといってもよかった。
「賢治まんじゅう」「賢治弁当」「賢治クッキー」「賢治キーホルダー」「賢治Tシャツ」などが売られた。
鳥山敏子は、「賢治の学校」なる本を出し、賢治の素晴らしい教育を実践する自らの教育論を述べたうえで、「みんなが賢治にかえる、みんなが賢治になれる」と主張した。
この本は十万部を超えて売れたというから、十万人を超える人が「賢治になれる」と少しでも感じたことになる。
1996年をピークに、もはや賢治は確実に、遺族にも手に負えないほど、不気味に膨張した存在になってしまったのである。

~~~つづく~~~

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