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破壊された石人・石馬の謎  古代筑紫一族の王家の谷 [歴史物語]

石人石馬の語る世界.jpg
「磐井の乱と九州王朝」~石人石馬を語る世界  中河原喬著 同成社


石人・石馬は人や馬の特徴を大づかみにした、おおらかな古代の石の彫刻である。
これほどまでに迫力のある、しかもかわいげのある石彫刻には出会ったことがない。
心惹かれてここまで来てしまった。

現代人には、強烈な憎しみや歓喜が失われ、薄い感情の残滓が見られるばかりで、物事には無関心になり、危機を感ずる能力が失せているのではないかとよく言われている。
古代であろうと現代であろうと、愛憎は表裏一体のもので、現代人の心底の奥からも、古代からの感情の持続が垣間見られる。
心の内側から踊り出たものを今風にコントロールし、芸術や祭りに活かす能力を、古代とは形が違っていても、基本的に持っているではないだろうか。

疑問のまま放置した、無残にも打ち崩された岩戸山古墳の石人・石馬が、誰によってなぜ崩されたのかを、もっと突っ込んで考えてみたくなった。

結論から言えば、磐井の乱(527年)で大和軍が勝利した後、反乱を起こしたと言われている筑紫の磐井君(いわいのきみ)が逃亡してしまって探しても見つからなかった腹いせに、大和の王(継体天皇)が、敵国の地元の石工たちに、石人石馬を破壊させたとの見方が有力である。
残忍非道にも、人々の手や足をも切り落とさせ殺したと言われている。
もともと筑紫側は、乱を起こす気もなく、応戦を余儀なくされただけであった。
磐井の乱の和睦が成立したのは、磐井の息子の葛子(くずこ)が、糟屋の屯倉を大和に貢いで差し出したからである。
疲弊した大和の兵士に食料と休息が与えられ、体力がついたあとであれば、石人・石馬は破壊できたのではないか。
しかし6万の大和軍による1年半の戦闘に次ぐ戦闘で、途中兵士の入れ替わりはあったとしても、ダイナマイトの無い時代に、兵士が槌とノミでもって多くの石人・石馬を砕いて破壊して回る余力があったかどうか疑問である。
相手に対して、よほどの憎しみを持つか、王の命令でもない限り、石を砕くのはつらい作業である。
素手に槌とノミを持ち石を割り、亀裂を入れ、塊をもぐためには、力がそうとう必要になる。
本職の石工の中には、朝鮮から筑紫国にやってきていた、渡来人の石工たちもいた。
大和の兵士たちは手を出さず、筑紫国の石工たちが自ら作った石人・石馬を、自らに崩させたとしたら、これほどの屈辱はなかっただろう。


★王家の谷と言うとエジプトのルクソールを思い出す。
古代の北九州(八女地方近辺)には小規模ではあるが、古墳時代の筑紫君一族の王家の谷があり、現在も発掘がおこなわれている。
2005年には、筑紫一族直系の鶴見山古墳から出土した青銅鏡の破片から、当時の人間の毛髪の残存物が見つかっている。
青銅鏡の破片の残存物の毛髪は、被葬者のものだろうかそれとも埋葬に関わった者のものであろうか。
青銅鏡には、ヒメクロバエのさなぎの痕跡もあった。
ヒメクロバエの産卵には光が必要だそうだ。
死者を石室に埋葬する前、一定期間、外に置いておく殯(もがり)と言う風習はそのころからあったと言われる。(西日本新聞
★石で造られたものには、裸体石人、兵士、盾・猪・水鳥・鶏、刀、靱(うつぼ)と言う靫の誤字で、矢を入れる道具がある。
★筑紫国や内乱のことは、日本書紀、古事記、筑後国風土記、国造本紀に書かれているが、記した者の主観が入っているそうだ。
★参考本
「磐井の乱と九州王朝」~石人石馬を語る世界  中河原喬著 (同成社)
「古代最大の内戦磐井の乱 」  田村円澄・小田富士雄・山尾幸久 著 (大和書房) 
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春の日の今日は、古代の磐井一族たちの、永遠の別れの秋の日に似ている [歴史物語]

筑紫の磐井.jpg
「筑紫の磐井」  著者 太郎良盛幸(たろうら もりゆき)   新泉社

「筑紫の磐井」と言う歴史小説を探し当て、作者の太郎良盛幸(たろうら もりゆき)氏の愛情深い着眼点や、人々や土地の名にさえ、温かな息吹を与えている取扱いに感心した。

筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)と言う名の誇り高き武将が、古墳時代(6世紀)、今の九州福岡の八女(筑紫)と言う豊かな地に王として存在した。
民を思い、朝鮮の新羅や伽耶国(かや)と共生し、助け合いながら愛情豊かに生きていた。

雄略天皇在位の大和に留学した筑紫君磐井は、後日、大和に謀反を企てた咎で打ち首になったとも、傷を負いながら他国へ逃れたとも言われている。
本当は謀反を企てたのではなく、朝鮮とも大和とも交流し、共存共栄のために情報交換し筑紫(ちくし)で豊かな実りを民と分かち合いたいと思っていただけであったらしい。


他国へ逃れる前の美しい秋の一日、紅葉や白い萩の花を眺めながら、筑紫君磐井は、娘の蓬媛夫婦や孫の琵琶媛、稲子たちとひと時を過ごし遊んだ。
そしてこれが永遠の別れとなったのである。
筑紫君磐井たちが、お互いにいつくしみあい、笑いさざめき、別れを惜しんだ美しい一日を、自分が体験したことででもあるかのように、たびたび思いだす。


その頃の王たちは、生前に自分の墳墓を作っていた。
埴輪はもちろんのこと石でつくった武人や猪、船、人などがあり、墳墓の周りに立たせ、墓の中にも並べていた。
岩戸山の墳丘墓からは、吉野ケ里(よしのがり)や筑紫海なども遠望できる。
筑紫国の岩戸山古墳では、527年の磐井の乱で、石人、石馬の首や手足が大和の軍勢に打ち崩され、人民も手足をもがれて殺された。
しかし大和から侵入してきた兵たちは、船旅の後、幾たびもの闘いの末、ほとんどの者が負傷するか疲弊している。
工人ではない兵士たちが、ノミと槌を持ち戦火の中、わざわざ石を割って岩戸山古墳群の石人・石馬を崩す力があったであろうかと言う疑問がわく。
ではいったいだれが、いつ石人・石馬を崩したのだろうか。
岩戸山の墳丘墓を訪れ、石人・石馬をなでまわしても、私にはわからない。


もともと筑紫側は、乱を起こす気もなく、応戦を余儀なくされただけであった。
その後、豊国に身を隠した筑紫君磐井の消息は分かっていない。
豊国(現在の行橋あたり)へ行ったらしい。

部下 
「私は和議に賛成です。筑紫連合王国の陸戦部隊は、ほぼ無傷で残っていますので、負けるとは思えません。大和王権側もこれ以上の部隊派遣は不可能でしょう。しかし民が疲弊しています。」(本文より)

筑紫君磐井 
「今年(秋)の取り入れには民を帰したい。おそらく麁鹿火(あらかい・敵方の大将)も和議の機会を伺っているのであろう。和議を進めやすくするため、(私は)引退して葛子(息子)に大王の位を譲るつもりである。私は戦いに勝てないと見て、豊国(とよのくに)に逃れたことにする」(本文より)

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